約150年続いた鎌倉時代は、日本初の武家政権による幕府が治めたことで知られています。成立年には諸説あり、かつては源頼朝が征夷大将軍となった1192年とされていましたが、現在は守護地頭を設置して鎌倉幕府の統治機構が完成した1185年とする説が主流となり学校の教科書にも採用されています。この幕府は源氏によって開かれましたが、源氏の血が途絶えた後の将軍や実権を握った執権については詳しく知らない人も多いのではないでしょうか?今回は、鎌倉幕府の歴代将軍と執権についてダイジェストでご紹介します。
鎌倉幕府将軍
鎌倉幕府の将軍は9人です。その特徴から、源氏将軍、摂家将軍、皇族将軍にわかれています。
初代将軍:源頼朝
鎌倉幕府を開いた初代将軍といえば源頼朝です。源義朝の三男で、妻(継室)は北条時政の娘・北条政子。平治の乱で敗れ伊豆に流刑となりますが、平家追討の兵を挙げのし上がります。鎌倉を本拠とした東国の支配権を確立し、源義仲の討伐や平家全滅を経て天下を平定。勅許を得て守護・地頭を設置するなど武家政治の基礎を固め、建久3年(1192)に征夷大将軍に任命されました。罪人から大成功を収めた頼朝ですが、最後は落馬で死去したといわれています。
この時代にしては珍しく恋愛結婚をした人物で、妻の政子は大きな影響力をもちました。また、弟・源義経との確執も有名で、義経はその悲劇から多くの伝説が生まれています。
第2代将軍:源頼家
源頼朝の子で、父の死後に家督を継ぎ2代目将軍となりました。就任直後に敷かれた「十三人の合議制」により実権を奪われたとされており、勢力を増した北条時政に義父・比企能員の一族を滅ぼされます。これに激怒した頼家は時政討伐を掲げますが、従う者はいませんでした。頼家は、関東の地頭職と総守護職を息子・一幡に、西国の地頭職を弟・源実朝に譲らされ、将軍職も実朝に譲位することになります。任期はわずか1年ほどで、その後は伊豆修禅寺に幽閉され、入浴中に謀殺されました。将来を嘱望されて誕生した頼家だけに、悲しい結末といえるでしょう。
第3代将軍:源実朝(さねとも)
源頼朝の子で源頼家の弟。頼家に代わって将軍に就任しますが、在職時に北条時政が執権となり、以降は北条氏の執権政治が本格化しました。そのような状況から政治には興味をもたず公家文化をたしなむようになります。和歌に優れており、家集『金槐和歌集』を残したほか、鎌倉右大臣として小倉百人一首にも歌が残されています。最後は鶴岡八幡宮にて甥の公暁に暗殺され、源氏将軍が断絶。事実上、源氏最後の将軍となりました。
第4代将軍:藤原頼経(よりつね)
摂政・九条道家の子で、源頼朝の遠縁にあたることから鎌倉に迎えられました。公家の頂点となる五摂家(近衛家、九条家、二条家、一条家、鷹司家)の中から将軍がうまれ、これ以降は摂家将軍の時代となります。
頼経が長く鎌倉にとどまり御家人と親密になると、その勢力を恐れた執権・北条経時から、子の藤原頼嗣に将軍職を譲るよう迫られて出家。その数年後には、反北条得宗派の反乱事件に利用され京都に追われました。
第5代将軍:藤原頼嗣(よりつぐ)
藤原頼経の子で、最後の摂家将軍となった人物です。執権・北条経時の強制により、父から将軍職を譲られ就任。しかし、僧・了行の幕府転覆の陰謀に頼経が関係していると疑われ、頼嗣も京都に追われました。
第6代将軍:宗尊親王(むねたかしんのう)
後嵯峨天皇の次男で、初の皇族将軍です。五摂家の九条家が将軍になるのを嫌った天皇と、九条家の勢力拡大を阻止したい北条氏の思惑が一致し、皇族から将軍が選ばれました。これ以降、将軍は本格的に傀儡化していきます。
鎌倉に出向して将軍に就任したものの、幕府への謀反の疑いで将軍職を追われ、帰京し出家。和歌に優れており、『初心愚草』『瓊玉和歌集』などの歌集があるほか、『続古今集』に67首が収められています。
第7代将軍:惟康親王(これやすしんのう)
宗尊親王の子で、父が将軍職を追われたのを受け征夷大将軍となりました。臣籍に下り、源惟康という源姓を賜った将軍としても知られますが、これは執権・北条氏の政策によるもので実権はなかったようです。のちに親王に復して親王宣下を受けますが、北条貞時に将軍の地位を追われ、帰京して嵯峨で出家し生涯を終えました。
第8代将軍:久明親王(ひさあきしんのう)
後深草天皇の皇子で、惟康親王が京都に送還されたあと征夷大将軍となり鎌倉に下りました。在職中に内管領・平頼綱や連署(執権の補佐)・北条時村の誅殺といった事件が相次いで起こりましたが、久明親王は蚊帳の外だったようです。北条氏との関係は良好だったといわれますが、幕府によって廃され、その後は出家しました。
第9代将軍:守邦親王(もりくにしんのう)
久明親王の子で、父に代わり将軍となりますが、幕府滅亡に伴い将軍職を退き出家しました。傀儡将軍だったことから倒幕の際にも守邦親王の名前は出なかったそうです。歴代で最も長く在職し、鎌倉幕府最後の将軍となりました。
鎌倉幕府執権
源氏が途絶えたあと、鎌倉幕府で権力をもったのは執権の北条氏です。将軍は傀儡化していたため、実際に政権を握っていた執権のほうが目まぐるしく変化していきました。
初代執権:北条時政
鎌倉幕府初代執権で、源頼朝の妻・北条政子の父親。幕府開府の功臣でもあり、北条氏の執権政治の土台を作った人物です。源頼家の将軍就任後、有力御家人による「十三人の合議制」の一人として政治に参加。勢力があった外戚の比企能員を滅ぼし、頼家も伊豆修善寺に追放して謀殺すると、幼い源実朝を将軍に立てて実権を握りました。政所別当(執権)に就任し、侍所別当・大江広元より権勢をふるうようになりますが、後妻・牧の方と画策した実朝殺害のシナリオを政子や北条義時に見破られ失脚。伊豆に退隠させられた時政は、二度と表舞台に戻りませんでした。
第2代執権:北条義時
北条時政の次男で北条政子の弟。父と頼朝の挙兵に従い、平家討伐や奥州藤原氏討伐などに参戦しました。時政の失脚をうけ執権になると、侍所別当・和田義盛を滅ぼしその地位も兼ねるようになります。3代将軍・源実朝が暗殺された後は、姻戚関係から左大臣・九条道家の子である藤原頼経を将軍に迎え、自らが幕政の実権を掌握。その後、後鳥羽上皇らの倒幕計画により承久の乱が勃発し、勝利した義時は上皇らを処罰して幕府権力を全国的に広めました。
第3代執権:北条泰時
北条義時の子で、善政を敷いたといわれる執権です。侍所別当、駿河守、武蔵守などを歴任し、承久の乱では幕府軍の大将として上洛。その後は六波羅探題として京都に滞在し戦後処理にあたりました。執権就任後は、連署・評定衆を設置して合議制を制度化し、「御成敗式目」を制定して武家政権を確立します。その後も従四位下、左京権大夫、従四位上に就きましたが、病のために出家しました。
第4代執権:北条経時(つねとき)
北条時氏の長男で、北条泰時の孫にあたります。父の早世により泰時の跡を継いで執権に就任。在職中に将軍・藤原頼経が辞職し、まだ幼い頼経の子・藤原頼嗣を将軍に立て、妹・檜皮姫を正室として将軍家との関係を強化しました。病が重くなり在職わずか4年ほどで執権を弟・北条時頼に譲渡し仏門に入りますが、出家後10日でこの世を去りました。
第5代執権:北条時頼(ときより)
北条経時の弟で、兄の隠退をうけて執権に就任します。一族の名越光時の陰謀を抑えて追放し、光時と通じた三浦一族を滅亡させ、北条氏の独裁体制を確立。将軍・藤原頼嗣を廃して宗尊親王を迎え、執権政治の権威を増大させました。引付衆の設置・訴訟制度の改革など公正な政治による幕政刷新も進め、出家後も幕政に関与したようです。また禅を深く信じており、宋から来日した高僧・蘭渓道隆を招いて、禅寺・建長寺を創建しました。
第6代執権:北条長時(ながとき)
北条義時の三男・北条重時の子で、父のあとに六波羅探題となり評定衆も務めました。執権だった北条時頼が出家し、跡継ぎの北条時宗が幼少だったことから執権に就任。その後は出家し鎌倉の浄光明寺で死去しました。世間の評判を気にする几帳面な性格だったと考えられており、重時が長時に宛てて書いた家訓『六波羅殿御家訓』などが知られています。
第7代執権:北条政村(まさむら)
北条義時の五男で北条泰時の異母弟。北条時政の死後、幕政を握ろうと画策するも失敗し、泰時により助命されました。評定衆、引付頭人、連署となり、まだ幼かった時宗の代理として暫定的に執権に就任。北条時宗が執権になると再び連署を務めました。『新勅撰和歌集』などに37首が選ばれているように和歌にも優れていたようです。
第8代執権:北条時宗(ときむね)
執権職を世襲する北条氏の嫡流得宗家の生まれで、北条時頼の子。蒙古襲来時の執権として知られています。元寇に対し強硬な態度をとり、文永の役・弘安の役で2度に渡って敵を撃退。内政においては、朝廷内の皇位争いに介入するなど積極的な政治を行いました。元軍の3度目の来襲に備えたものの病により出家。早くから禅を信じており、南宋から無学祖元を招き、元寇の戦没者追悼のため円覚寺を創建しました。
第9代執権:北条貞時(さだとき)
北条時宗の子で、父の死により執権に就任しました。当時は外祖父(血縁上は外伯父)である有力御家人・安達泰盛が権勢を振るっていましたが、内管領(得宗家執事)の平頼綱がこれを排除。その後、専制を敷いた頼綱を討って自ら実権を握ります。困窮した御家人を救済すべく徳政令を発する一方、一族を全国に配置して御家人を統制するなど得宗家による専制を確立。北条師時に執権を譲って出家したあとも幕政を指導しました。
第10代執権:北条師時(もろとき)
北条時頼の三男・北条宗政の子で、北条貞時の女婿。出家した貞時の跡を継いで執権に就任しましたが、実権は貞時が握っており、貞時の子・北条高時が成人するまでの中継的な役割だったようです。のちに出家するも同日に死去。評定の座で亡くなったと伝えられています。
第11代執権:北条宗宣(むねのぶ)
北条宣時の子で、大仏流北条氏の祖・北条朝直の孫。初代執権・北条時政の玄孫にあたります。引付衆、評定衆、六波羅探題南方、連署など順調に出世を重ねて執権に就任。しかしその翌年、病のため辞任し出家しました。
第12代執権:北条煕時(ひろとき)
北条為時の子で、第7代執権・北条政村の曾孫。評定衆、寄合衆、連署などを経て執権に就任しましたが、約3年の在職期間の幕政は、内管領の長崎円喜・高資父子らによって掌握され、実権はありませんでした。病により辞任して出家しますが、同月に死去。『玉葉和歌集』『新後撰和歌集』に詠歌が残されています。
第13代執権:北条基時(もととき)
北条煕時のはとこ(政村が曽祖父)で、煕時の辞任により執権となります。しかし、実権は相変わらず内管領・長崎高資の手中にあり、翌年には得宗の北条高時に執権職を譲って出家。元弘元年(1331)後醍醐天皇の倒幕計画により元弘の乱が勃発すると、反幕勢力の討伐軍に参加しました。また元弘3年/正慶2年(1333)に新田義貞らが幕府に反旗を翻して挙兵した際は、北条貞顕らと鎌倉の化粧坂を守備。『太平記』によれば、激戦を繰り広げたものの敵方の武士たちに侵入され、普恩寺で部下とともに自刃しました。
第14代執権:北条高時(たかとき)
北条貞時の子で、幼くして執権に就任しました。しかし実権は舅の安達時顕、内管領の長崎円喜・高資父子に握られており、田楽や酒などに耽って幕政が乱れ、病気を理由に執権職を貞顕に譲って出家。元弘の乱では後醍醐天皇を隠岐に流して倒幕勢力を一掃しましたが、新田義貞の鎌倉侵攻に際し逃亡の末に東勝寺で自害しました。
第15代執権:北条貞顕(さだあき)
北条顕時の子で、金沢文庫で有名な北条実時の孫にあたります。六波羅探題、評定衆、連署などを経て執権に就任しますが、北条高時の弟・北条泰家の反対を恐れわずか10日間で出家し引退。鎌倉幕府の滅亡に際し、高時らとともに東勝寺で自刃しました。生前は学問を好み、金沢文庫の充実や発展に尽力したといいます。また流鏑馬にも秀でていたようです。
第16代執権:北条守時(もりとき)
第6代執権・北条長時の嫡男である北条久時の子で、鎌倉幕府最後の執権です。北条高時、北条貞顕が相次いで出家したため執権に就任しましたが、幕府内の実権は高時が掌握していました。姻戚関係にあった御家人筆頭・足利尊氏が京都にて幕府に反旗を翻したため幕府内での立場が悪化し、これを払拭するため倒幕を掲げる新田義貞軍との戦いで先鋒隊として出撃。激戦を繰り広げたものの敗退し、自身が尊氏の縁者(妹が尊氏の妻)であることから自刃しました。
権力が激しく移り変わった鎌倉幕府
鎌倉幕府の政治の主導権は、将軍から執権に、さらには執権補佐の連署や得宗家に、そして得宗家の執事である内管領へと移っていきました。鎌倉幕府といえば源頼朝のイメージが強いですが、実際はこれほど多くの将軍や執権がいたんですね。1人ずつチェックしてみると、鎌倉時代の歴史がもっと面白く感じられるかもしれません。