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【徳川慶喜】大政奉還と江戸城開城、江戸幕府最後の将軍はどう生きたか?

【徳川慶喜】大政奉還と江戸城開城、江戸幕府最後の将軍はどう生きたか?

徳川慶喜は、約250年間続いた江戸幕府の最後の将軍となった人物です。江戸時代を終焉させた慶喜は、在任中は江戸に入城せずに過ごし、戊辰戦争後は政治的な野心をもたずに生きました。そのような側面から、徳川15代のなかでも特殊な将軍といえるかもしれません。
今回は慶喜のうまれから一橋家相続まで、禁裏御守衛総督になるまでの経緯、最後の将軍としての決断と戊辰戦争後の動きなどについてご紹介します。

うまれから一橋家相続まで

そもそも慶喜は将軍になるべくして生まれたわけではありませんでした。その幼少期について振り返ります。

第9代水戸藩主のもとに生まれる

慶喜は、天保8年(1837)第9代藩主・徳川斉昭の七男として江戸・小石川の水戸藩邸で誕生しました。幼名、松平七郎麻呂(まつだいらしちろうまろ)。斉昭の教育方針により水戸に移って養育され、藩校・弘道館で学問や武術を教わりました。当時から慶喜の才知は抜きんでており、斉昭も慶喜を養子に出さずにおこうと考えていたようです。弘化4年(1847)12代将軍・徳川家慶の意向を受け一橋家を相続。家慶から一字を賜わり、以降は徳川慶喜と名乗るようになりました。

将軍継嗣問題に巻き込まれ…

嘉永6年(1853)黒船来航のなか将軍・家慶が病死し、その跡を継いだ家定が病弱だったことから将軍継嗣問題が浮上します。慶喜を推す斉昭、老中・阿部正弘、薩摩藩主・島津斉彬ら一橋派と、紀州藩主・徳川慶福(のちの家茂)を推す彦根藩主・井伊直弼、家定生母・本寿院ら南紀派が対立するも、新たに大老となった直弼により家茂が次期将軍に決定。なお、慶喜はもともとこの件に乗り気ではなかったようです。

その後、直弼が勅許なしに日米修好通商条約に調印したことを詰問した慶喜は、安政の大獄により謹慎処分をくだされます。しかし、桜田門外の変で直弼が暗殺されると、恐れをなした幕府により謹慎を解かれました。

将軍後見職から禁裏御守衛総督へ

禁裏御守衛総督時代の慶喜です。

一橋家を継いだ慶喜は、将軍後見職となり徐々に権力を手にしていきます。それはのちの将軍就任へと繋がっていきました。

文久の改革、朝廷との交渉

文久2年(1862)薩摩藩の事実上の最高権力者とされる島津久光らが勅命を盾に幕府の人事に介入したことで、慶喜は将軍後見職に就任します。政事総裁職となった松平春嶽とともに幕政改革(文久の改革)に着手し、非常時にも対応できる体制を目指して、京都守護職の設置や参勤交代の緩和などを実行しました。翌年、攘夷について協議するため230年ぶりの将軍上洛が決まると、それに先駆けて上洛し朝廷と交渉。また、攘夷拒否を主張する幕閣を押し切るなど積極的に幕政に関わりました。

勢力基盤を構築する

元治元年(1864)慶喜は将軍後見職を辞任し、京都御所を警護する禁裏御守衛総督に就任します。以降は京都に身をおき、幕府中央から半ば独立しながら京における幕府勢力の中心となりました。慶喜の活躍は目覚ましく、禁門の変の際は馬にも乗らず敵軍を攻撃。これにより慶喜は、自ら敵に斬り込んだ唯一の徳川将軍として名を残します。

その後は会津藩、桑名藩との提携による一会桑(いちかいそう)体制を本格化させ、長らく幕府にとって懸案事項だった安政五カ国条約の勅許を得るために奔走。慶喜は切腹覚悟で自ら交渉にあたり、勅許を得ることに成功しました。

最後の将軍となった慶喜

朝廷との交渉など積極的な幕政で活躍した慶喜。将軍就任後の彼は歴史に残る決断をすることになります。

ついに将軍宣下を受ける

将軍・家茂の死後、次期将軍として期待された慶喜は、徳川宗家は相続したものの将軍職は拒みました。しかし、相続の4か月後、二条城で将軍宣下を受けついに将軍に就任。これには開国指向が強まっていたことも関係していたようです。

慶喜は畿内に留まり朝廷と密接に連携しながら慶応の改革を推進します。この改革では、フランスの援助による横須賀製鉄所の設立や、海外軍事顧問団を招致しての軍制改革が行われたほか、陸軍・海軍・会計・国内事務・外国事務の総裁が設置されました。また、幕臣らの欧州留学も奨励し、実弟・徳川昭武らをパリ万国博覧会に派遣しています。その派遣メンバーには、後に「日本資本主義の父」と称される渋沢栄一もいました。

大政奉還と王政復古の大号令

日本画家・邨田丹陵(むらたたんりょう)による『大政奉還図』です。

孝明天皇の崩御後、薩長の武力倒幕を予期した慶喜は大政奉還で政権を返上しました。これにより実質的に江戸幕府は終焉を迎えます。この決断には、政権返還の姿勢をとることで薩摩藩・長州藩の倒幕の大義名分が失われることや、武力衝突を避けながら徳川家の権力を残せるといった利点がありました。

以降の政治体制は諸侯による合議制となりましたが、慶喜を筆頭格とした新政府に不服を覚えた倒幕派は、王政復古の大号令により徳川家を排除した新政府樹立を宣言します。これにより慶喜の辞職、徳川家の所領の一部返上などが決まりました。

戊辰戦争とその後

辞官納地を受け入れた慶喜ですが、諸外国の公使らに正当性を主張するなどして新政府への参画がほぼ決まります。しかし、慶喜が避けていた戦いがとうとう起きてしまったのです。

鳥羽・伏見の戦いで敵前逃亡!

大坂から脱出する徳川慶喜が描かれた、『徳川治績年間紀事 十五代徳川慶喜公』です。

慶応4年(1868)旧幕府軍と新政府軍による戊辰戦争が勃発。初戦となる鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍は敗退するなど形勢不利に陥りましたが、慶喜は絶対退いてはならないと厳命します。しかしその一方で、自分は側近や妾たちと軍艦(開陽丸)で江戸に退却しました。のちに非難の的となるこの敵前逃亡については、「錦の御旗」を掲げた新政府軍が官軍とみなされたため、賊軍として汚名をきせられるのを恐れたという説や、水戸徳川家に「朝廷との争いが起きた場合は、幕府に背いても朝廷に弓を引いてはならない」という家訓があったなど、複数の説があるようです。

江戸城が無血開城される

その後、朝敵とみなされた慶喜の追討令が正式に下され、有栖川宮熾仁親王率いる新政府軍が東征を開始。慶喜は朝廷に恭順を示し、徳川宗家の家督を養子・徳川家達に譲って上野の寛永寺大慈院で謹慎します。江戸城は旧幕臣・勝海舟と新政府・西郷隆盛の交渉により、総攻撃が回避され無血開城されました。その後、徳川家の駿府移封に伴い慶喜も駿河・宝台院で謹慎。こうして徳川家による政権は幕を閉じ、慶喜は日本史上最後の征夷大将軍になったのでした。

趣味に没頭した余生

『幕末・明治・大正回顧八十年史』より、狩猟姿の慶喜の写真です。

戊辰戦争の終結後、謹慎を解かれた慶喜は引き続き静岡(旧駿府)に居住しました。野心がなかった彼は政治的な事柄には関わらず、隠居手当を使って写真・狩猟・投網・囲碁など趣味に没頭する生活を送ったといいます。このころには「ケイキ様」の呼称で人々から親しまれていた慶喜ですが、旧幕臣の訪問には対応せず、渋沢栄一ら一部の人間にしか会いませんでした。仕事を失い困窮した旧家臣のなかにはこのような態度を恨む者もいたようです。
明治34年(1901)の東京転居後、貴族院議員に就いて35年振りに政界に戻りますが、明治43年(1910)には辞職し再び隠居。大正2年(1913)11月22日、風邪から急性肺炎を併発し、この世を去りました。

徳川家康の再来といわれた

江戸時代最後の将軍となり、日本最後の征夷大将軍となった慶喜。弁舌にも優れ政治家として期待されていた彼は、徳川家康の再来ともいわれていたようです。幼少期から優れた才能を発揮していた慶喜は、晩年に多くの趣味をもち、そのほとんどを極めていたといいます。生まれた時代が少し違えば、その才覚により、江戸時代を代表する将軍になっていたかもしれませんね。

 

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