三井、住友とともに三大財閥に数えられる三菱。その創始者として知られるのが岩崎弥太郎(彌太郎)です。旧家である三井、住友が300年以上の歴史をもつのに対し、三菱は明治期に巨万の利益を得てその地位を確立しました。弥太郎はどのようにして一から三菱財閥を築いたのでしょうか?
今回は、弥太郎が藩に取り立てられるまでの経緯、活躍と出世の軌跡、政府の後ろ盾を受けての大躍進、弥太郎にまつわる逸話などについてご紹介します。
藩に取り立てられるまで
幼少期は貧しい生活を余儀なくされていた弥太郎。しかし藩に取り立てられたことで転機が訪れます。
地下浪人の長男として誕生
弥太郎は、天保5年(1835)地下浪人(じげろうにん)岩崎弥次郎の長男として土佐国安芸郡井ノ口村(現在の高知県安芸市井ノ口甲)で誕生しました。岩崎家は甲斐武田家当主の5男が山梨東郡岩崎を本拠に岩崎氏を称したのがはじまりといわれ、天明の大飢饉後の混乱で郷士の資格を売ったことから地下浪人になったようです。
そのような事情から極貧生活を強いられた弥太郎ですが、頭脳明晰で10代で儒者・小牧米山に弟子入りし、20代になると江戸に出て昌平坂学問所の教授・安積艮斎(あさかごんさい)の見山塾に入塾。安政2年(1855)酒席での喧嘩で父が投獄された際、奉行所にたてついたことから投獄され、このとき獄中で商人から学んだ算術・商法がのちの人生に影響することになりました。
吉田東洋との出会い
安政5年(1858)出獄後に帰国するも村を追放された弥太郎は、蟄居中だった土佐藩の執政・吉田東洋の少林塾に入塾し、東洋の甥・後藤象二郎らと交流します。その後、藩の役人と衝突しながらも藩に取り立てられ、東洋が参政として藩政に復帰するとこれに仕えて藩吏の一員として長崎に出張しました。
また、このころ借金をして郷士株を買い戻し、妻・喜勢と結婚。文久2年(1862)土佐勤王党により東洋が暗殺されると犯人探しを命じられましたが、党員の工作により行動を制限され捕縛は叶いませんでした。
弥太郎、出世街道をばく進!
極貧生活から始まり、藩に取り立てられ、郷士株を買い戻すまでになった弥太郎。その後はさらに活躍の場を広げていきます。
開成館長崎商会の主任に
慶応3年(1867)弥太郎は、東洋の門下生・福岡藤次に求められ長崎へ同行します。この当時の土佐藩は、開成館長崎商会(土佐商会)を介して欧米商人から船舶・武器を仕入れており、鰹節などの物産品を輸出していました。象二郎から開成館長崎商会の主任を命じられた弥太郎は、武器商人グラバーらと取引するなど欧米商人を相手に輸出入の交渉を担当します。
また、慶応元年(1865)に龍馬らが設立した「亀山社中」が「海援隊」として土佐藩の外郭機関になると、藩命を受けて残務整理を担当しました。
九十九商会の経営者に
維新後の明治2年(1869)10月、土佐藩の首脳・林有造が海運業の私商社である土佐開成社、のちの九十九(つくも)商会を設立します。弥太郎はここで事業監督を担当し、翌年には土佐藩の少参事に、また大阪藩邸の責任者になるなど昇進していきました。
廃藩置県で官職を失うと九十九商会の経営者に就任し、藩船3隻を借り受けて内航事業を開始。担保として抑えられていた藩屋敷を買い戻すと、本邸を構えて事業の拠点にしました。これがのちに三菱発祥の地として知られるようになります。
三菱商会に会社名を変更
明治5年(1872)九十九商会は三川(みつかわ)商会にかわり、翌年には三菱商会と改称して本拠が大阪から東京・日本橋に移りました。弥太郎は海運業以外にも手を広げて三菱財閥の基礎を築き、このとき三菱のマーク「スリーダイヤ」が作られます。スリーダイヤは土佐藩藩主・山内家の家紋「三つ柏」と岩崎家の家紋「三階菱」をあわせたもので、現在でも三菱グループおよび関連会社で商標使用されているお馴染みのマークです。
なお、このころ弥太郎は政商としても暗躍していました。紙幣が全国統一される際、新政府が藩札を買い上げることを事前に察知した弥太郎は10万両分も藩札を買い占め莫大な利益を手にします。この裏には、新政府の高官になっていた象二郎からの情報もあったようです。
明治政府への貢献と大躍進
事業の拡大や政商としての活躍など、存在感を高めていった弥太郎。その後、政府との関わりによってさらに大躍進していきます。
政府の軍事輸送を担当する
明治7年(1874)政府の台湾出兵に際し、英米船会社や日本国郵便蒸気船会社が断った軍事輸送を三菱が引き受けます。これにより、政府が購入した外国船13隻を運航。また、横浜―上海間に航路を開いて内外航路を独占していた海外企業と価格競争になった際は、政府の特別助成を受けました。弥太郎は政府御用達の意味を込めて海運部門を「郵便汽船三菱会社」と改称し、その後も激しい価格競争を政府とともに勝ち抜いていきます。
明治10年(1877)の西南戦争では社船38隻を稼働させ、政府軍の弾薬・食糧などを輸送。これにより莫大な利益をあげた三菱は、海運業でトップの座を獲得しました。
共同運輸会社との対立と合併
政府の仕事を受けばく進する三菱でしたが、海運の独占などに対し世間の批判が膨らんでいきます。大久保利通の暗殺や大隈重信の失脚により強力な後援者を失うと、大隈に敵対していた井上馨らによる三菱批判が強まり、渋沢栄一ら反三菱財閥勢力が設立した共同運輸会社と対立するようになりました。
そんな中、明治18年(1885)2月7日、弥太郎は胃がんでこの世を去ります。葬儀には各界要人を含めた3万人が参列し、多方面に進出した三菱の事業は弟・弥之助、長男・久弥へと継承されました。
弥太郎の死後、海運業をめぐり争っていた両社は、政府の後援によって合併し日本郵船となっています。
弥太郎にまつわる逸話
三菱財閥を作り上げた弥太郎はどんな人物だったのでしょうか?その逸話をご紹介します。
日本初のボーナスを出した
当時、世界最大の海運会社だった英国のピー・アンド・オー社が進出してきた際、三菱は大幅リストラや社員給与の3分の1返上といった経費削減などの戦略で徹底対抗しました。このビジネス戦に勝利した弥太郎は、各人の働きを査定して年末に賞与を支給したといいます。その金額は給与約1か月分で、これが日本初のボーナスといわれています。
岩崎家家訓と内助の功
岩崎家には母・美和の残した家訓があり、そのなかには「貧しいときのことを忘れない」という内容がありました。妻の喜勢はこの家訓を守り、結婚当時の貧しさを忘れずに夫に尽くしたといいます。このような妻の支えがあったからこそ弥太郎は大躍進できたといえるでしょう。なお、弥太郎自身は「年下や後輩に奢ること」を習慣にしており、これを家訓として残したそうです。
日本を代表する実業家の一人に
没落していた岩崎家に生まれた弥太郎は、出世を重ねて日本有数の財閥を築くほど大成功を収めました。幕末時代のさまざまな人物との出会いや、妻・喜勢の支えが、彼を成功に導いたといえるでしょう。多くの功績を残した弥太郎は、現在でも日本を代表する実業家の一人として知られています。