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【渋沢栄一と新選組】土方歳三のほか、近藤勇も「大沢事件」に同行していた?

NHK大河ドラマ『青天を衝け』で描かれた国事犯・大沢源次郎の捕縛事件。幕末の京都で、渋沢栄一(篤太夫)が新選組の土方歳三とともに出動した、なかなかレアな出来事。ドラマでは、栄一と土方がわずかな時間ながら心を通わせあう一幕があったが、実際のところ、どうだったのか。また土方だけでなく、新選組の局長・近藤勇と栄一の絡みはなかったのだろうか?栄一の自伝をもとに、着目してみたい。

渋沢の自伝『雨夜譚』に残る、近藤勇の行動の謎

大政奉還の前年、つまり慶応2年(1866)8月、一橋慶喜が徳川宗家の当主になった。15代将軍の座につくのは、それから4ヵ月後の同年12月のこと。この間に起きた出来事として、渋沢が自伝『雨夜譚』で回想するのが、新選組と行動をともにした「大沢源次郎・捕縛事件」である。

当時、京都に禁裡番士として駐在していた大沢源次郎が、謀反の嫌疑をかけられていた。これを幕府が捕えることになるが、大沢は剣術に長けていた様子。担当の調役組頭が尻込みして、一橋家から将軍家の直参となったばかりの渋沢栄一にお鉢がまわってきた。「ソレは造作もないこと」と快諾した渋沢だが、用心のため、新選組が護衛についたのである。

「それでは京都町奉行の屋敷へ行って、新撰組の隊長・近藤勇に引合へますといふので、それから直に京都町奉行の役宅において近藤に面談して、新撰組の壮士・六~七人に警衛されて、その夜、北野近辺のある家に休息して、大沢の動静を探偵してみたところ……

「ついに警固の壮士は門前に待たせておいて、自分は近藤勇とともに寺院の中に進み入って、源次郎は宅に居るかといふと(中略)ねむそうな眼をして出て来たから、自分から奉行よりの命令を伝え、両刀を取りあげて直に捕縛した。」

以上は、明治20年代の自伝『雨夜譚』の記述だが、これを見る限り、渋沢栄一と行動を共にしたのは近藤勇。つまり局長みずから大沢の捕縛に同行したことになる。「壮士6~7人」とあるから土方歳三もいたのかもしれないが、この自伝では、近藤以外の名前は挙げられていない。

やはり、渋沢の記憶違いだったのか?

ところが、それよりも後年の大正時代にまとめられた別の自伝『実験論語処世談』には、それとは別の描写が出てくる。

京都・壬生(みぶ)にある八木邸は、新選組の最初の屯所。この事件のあった1866年には西本願寺(北集会所、太鼓楼)へ屯所が移転していた。

「その際、近藤勇は『本来ならば自分で同道する筈だが、所用の為、同道できぬから、代理として土方歳三を遣はす』との事で、同人は四人ばかりの壮士を率いて、私の護衛に来たのである。」

先の『雨夜譚』とは、ちょっと違っている。記憶違いだったのか、後になって思い出したのだろうか。ともかくも、近藤局長は捕縛事件の現場には現れず、副長の土方歳三が4人の隊士を連れてやってきたらしい。

かくして、任務をともにすることとなった渋沢と新選組。「捕縛してから罪を言い渡そう」という新選組に対し、渋沢は「捕縛してから罪を言い渡すのは相成らぬ」と反論。このあたりはドラマでも描かれたとおりだ。問答が続いたあと、土方歳三の名前が同書に初めて登場する。

土方歳三銅像(東京・高幡不動尊金剛寺)

「四人のうちの土方歳三という人が事理のわかった人であった為、私の主張を理ありとし、この場合、渋沢のいう通りにするがよかろうとの事になり……

折衷案として、門前で相手に見えないように護衛をしよう、ということになったという。渋沢は無事、一緒に任務を果たした土方を「話の分かる人」と評したわけである。

では結局、渋沢は近藤勇とは面識がないままだったのか。実はそうでもなかった。同書の別項では、こう語っている。

「私は、このような事件があってから後に近藤勇と始めて会ったのだが、会って見ると存外穏当な人物で、ちっとも暴虎馮河(ぼうこひょうが)の趣なんか無く、よく事理の解る人であったのだ。しかし、近藤は飽くまで薩摩を嫌ひな人で、薩州人とはともに天を戴かざる概を示しておったものだから(中略)世間から誤解せらるるようにもなったのである。」

近藤勇も、土方歳三も人の上に立つに足る「話の分かる人」であったという。「ゆえに、新選組 が幕末に当って勢力を揮ったのは当然で、また為に能く京都警護の任をも尽し得た」と、渋沢は彼らのことを高く評価した。世が世なら、もとは武州の百姓同士、永く親交を結ぶこともできたのかもしれない。

今回の大河ドラマ『青天を衝け』には、近藤勇は役としては登場せず、土方歳三のみが渋沢と面識を持ち、意気投合するシーンが描かれた。わずかな時間ながら心を通わせ合うという一幕。これはまったくのフィクションと思われる向きもあろうが、一応は史料に見えるものがある。

栄一の孫が記した、土方歳三との会話

栄一の孫娘・市河晴子(1896~1943年)が、大正時代の末期ごろに書き留めた話が『渋沢栄一伝記資料』に残っている。「大沢の話」というくだりである。

「正面には渋沢篤太夫(栄一)、二十七歳の若盛り、悠然として座ってゐる、これに対して新撰組副長として、泣く子もだまる土方歳三、その左右には殺伐の化身の如き面魂の新撰組の腕利き四、五人……」

などと、大袈裟な書き出しに始まり、「いくつになられますかな」「当年、二十七才に相なります」「さらば拙者とは大分御下じゃ」などと、見てきたかのような土方と渋沢の会話までが小説調で記されている(土方は当時32歳)。晴子は「言葉を出来るだけその当時の通りにしておきたいと思って書いた、それで祖父様もわりに念を入れて、言葉をなおして下さった」と結んでいる。栄一は、孫娘が喜ぶように話を膨らませたのかもしれない。あるいは晴子が新選組びいきから、いくぶん妄想を逞しくして書いたのかもしれない。

市河晴子の母、穂積歌子(旧名・渋沢うた。1863~1932年)。この歌子は、渋沢栄一と千代夫妻の長女で、大河ドラマにも幼少期の姿で登場している。明治15年、旧宇和島藩士・穂積陳重に嫁いで4男3女をもうけた。三女・晴子は、英語学者で後に東大名誉教授となる市河三喜に嫁いだほか、文中の通り、祖父・栄一に関する手記を残した。

締めくくりとして『実験論語処世談』に記された、新選組の逸話をもうひとつ紹介しておきたい。「近藤勇の新選組には随分乱暴な人間も加わってたが、中にもこの新選組に属する壬生浪人という仲間は、壬生に居住し、能く乱暴を働いて良民を悩ましたものである」という書き出しに始まる一節だ。ある夜、渋沢栄一が宿所にある人を伴って帰ってくると、3人の壬生浪人たちが「その者を引き渡せ」と、人を介して要求してきた。

栄一が頑としてそれを拒むと、壬生浪人らは渋沢「喜作」の宿所へ押しかけた。姓が同じなので間違えたのである。喜作が「人違いであろう」といったので、浪人らは栄一の宿所へ向かった。それをいち早く下男が知らせたので、栄一はさっさと戸を固く締めて待った。浪人らが戸外から「かくまっている者を渡せ」と要求するが、栄一は「いよいよもって渡すわけには相成らぬ」と譲らない。
押し問答が続き、いよいよ実力行使になるかというとき、栄一の知人は「これ以上、ご迷惑をかけてはあい済まぬ」と、自分から飛び出していってしまった。3人の浪人たちはその者を捕らえて去ったが「この夜の事件が隊長、近藤勇の耳に入り、三人の壬生浪人は近藤からいたく譴責されたそうである」という顛末であった。

栄一の自伝も孫娘の聞き書きも、どこまでが事実なのかは分からない。しかし、当時を知るものがいなくなった現在となっては知る由もない。いずれにしても後世の我々にとって、興味深い逸話の数々をよく残してくれたものだと思う。

(文・上永哲矢/歴史随筆家)

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