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【伊藤兼子(渋沢兼子)】渋沢栄一の後妻が歩んだ生涯と渋沢家の子供たち

【伊藤兼子(渋沢兼子)】渋沢栄一の後妻が歩んだ生涯と渋沢家の子供たち

「日本資本主義の父」とよばれる渋沢栄一には、生涯で2人の妻がいました。伊藤兼子は渋沢を支えた2番目の妻です。渋沢といえば、生涯に約500の企業に関わり、約600の社会事業に尽力したことでも知られています。晩年まで多忙だった渋沢を支え続けた兼子とは、どのような人物だったのでしょうか?

今回は、兼子のうまれから渋沢栄一と出会うまで、渋沢との結婚、また渋沢家の子供たちについてご紹介します。

渋沢栄一と出会うまで

兼子はどのように渋沢と出会ったのでしょうか?うまれから渋沢との出会いまでについて振り返ります。

父は豪商・伊藤八兵衛

兼子は豪商・伊藤八兵衛の娘として誕生しました。父・八兵衛は武蔵国川越の豪農・内田善蔵の長男で、弟とともに江戸きっての質商・伊勢屋長兵衛のもとで丁稚奉公をして頭角を現しました。その後、八兵衛は伊勢屋の一族で幕府の御用商人・伊藤家の婿養子となり、油仲間の寄合所を建て江戸一の大富豪として数えられます。彼には逸話も多く、水戸の天狗党が旗揚げする際に小判5万両の献金を命じられたところ、「小判5万両は難しいが二分金なら3万両ご用立て申しましょう」と答え、即座に差し出したという話が残されています。また、明治維新のときにも5万両を献上しました。このような八兵衛の活躍は、明治時代の雑誌『太陽』の創刊号にも載るほどだったようです。

家業を継ぐも没落

江戸でも指折りの大富豪の娘だった兼子は、18歳で家業を継ぎました。また、このときに結婚し婿養子をもらっています。幸せ真っ只中だったはずの兼子ですが、ここでまさかの出来事が起こりました。明治4年(1871)ごろ、アメリカ商人ウォルシュ・ホール商会と共同事業を始めようと保証金を渡したところ、取引失敗により大損失を出したのです。保証金の返還などを求め民事裁判を起こしたものの交渉は決裂。実家は没落し、兼子は夫とも離縁することになりました。

芸妓の道へ進んだ兼子

離婚した兼子は生きていくために芸妓の道へと進みます。そしてそこで、渋沢栄一との縁談を紹介されました。それまでにも兼子には多数の縁談がありましたが、どれも妾という条件だったようで、彼女は「妾だけは嫌だ」と縁談を断り続けてきたといいます。もともと豪商の娘だった兼子からすれば、妾という立場は許せなかったのかもしれません。しかし渋沢との縁談については、正妻として迎えるというものだったため、兼子は再婚を決意しました。

渋沢栄一との結婚

渋沢を支える妻として生きることを決めた兼子。その後は彼女の第2の人生がスタートしました。

前妻:尾高千代を亡くした渋沢

渋沢の前妻・千代

渋沢の後妻になった兼子ですが、そもそもなぜ彼女のもとに渋沢との縁談が舞い込んだのでしょうか?実はこれには、渋沢の元妻の存在が関係していました。渋沢は18歳のとき、尾高千代という女性と結婚しています。尾高家は名主で、渋沢の父の姉が千代の母・やへだったことから二人はいとこの関係でした。また、千代の兄・惇忠は「尾高塾」を開いており、渋沢はここで学ぶ子弟の一人だったのです。

このような関係からもともと親しかった二人はやがて結ばれましたが、千代は平穏な結婚生活は送れませんでした。渋沢は幕末の動乱で尊王攘夷に目覚め、徳川慶喜に仕えて幕臣となったあとはパリ万博視察の随行員として渡仏。離れ離れの生活が長くなりましたが、気丈な性格だったといわれる千代は内助の功を発揮して渋沢家を守ったといいます。しかし明治15年(1882)、コレラを患い死去。これは兼子が渋沢と結婚する前年のことで、兼子との縁談は前妻を失くしたからこそのものでした。

渋沢は運命の相手だった!?

前妻・千代の死により新たな妻となった兼子ですが、渋沢と兼子の結婚には運命的なエピソードも残されています。兼子が結婚後に渋沢の邸宅にいくと、そこはかつて兼子の実家が手放したものだったそうです。これは兼子にとっても嬉しい事実だったのではないでしょうか。また、渋沢は兼子の父・八兵衛のもとで丁稚奉公していた履歴もあるといわれています。このとき二人に面識があったかどうかは定かではありませんが、やはり運命的なものを感じさせる関係といえそうです。

妻以外にも多数の妾がいた?

兼子という2人目の妻を迎えた渋沢ですが、実は妾がいました。千代が健在だったころからの妾で、関係解消後も渋沢邸に出入りしていた大内くに、深川福住町の自宅で同居していたという田中久尾、日本橋浜町の別宅に囲っていたといわれる鈴木かめの3人がおり、妻妾同居していた時期もあったようです。

渋沢家の子供たち

日本史に名を残した渋沢ですが、子供たちはどのような道に進んだのでしょうか?

妻とのあいだに7人の子をもうける

晩年の渋沢家の写真です。

渋沢は千代とのあいだに3人、兼子とのあいだに4人の子がいました。妻とのあいだで生まれた子供は、長女・歌子、次女・琴子、次男・篤二、三男・武之助、四男・正雄、三女・愛子、五男・秀雄の7人です。(長男・市太郎は生後6カ月で夭折)ただし妾とのあいだにも数人の子供が生まれているため、実際はもっと多くの子孫を残したといえるでしょう。

また、最初の妻である千代の弟・渋沢平九郎を養子として迎えています。多忙ながら子だくさんだった渋沢には、子供たちの朗読を聞くという微笑ましい日課があったそうです。

跡継ぎは長男・渋沢篤二だったが……

渋沢一族の後継者は、当初は次男・篤二とされていました。幼くして母・千代を亡くした篤二は長女・歌子とその夫によって養育されたようです。何ひとつ不自由ない暮らしではあったものの、周囲からの大きな期待がプレッシャーとなったのか、篤二は学生時代に学校に行かず遊女と遊ぶという問題を起こしています。それでも明治30年(1897)には実業界に入り澁澤倉庫部の倉庫部長に就任。倉庫部が改組され澁澤倉庫株式会社になると初代取締役会長となりましたが、篤二は経営よりも趣味の世界に没頭していきました。趣味は義太夫、小唄、謡曲、写真、乗馬、日本画、ハンティングなど多岐にわたり、いずれもプロのような腕前だったといいます。そして明治44年(1911)、芸者と不倫問題を起こし、新聞に掲載されるという事態に陥ります。これにより後継者としての適正がないと判断された篤二は、大正2年(1913)に廃嫡となりました。

渋沢家を継いだ渋沢敬三

晩年の渋沢家の写真です。

篤二の廃嫡騒動後、渋沢は篤二の長男・渋沢敬三を跡取りにするよう懇願しました。このとき敬三はまだ18歳でしたが、祖父の願いを受け入れ渋沢一族の後継者になることを決意。渋沢家当主となった敬三は、学問と仕事を両立し実業家となります。大正15年(1926)には第一銀行(現在のみずほ銀行)取締役、澁澤倉庫株式会社取締役を歴任し、渋沢の死後は「日本民族学会」を設立。また、太平洋戦争中には日本銀行の総裁に、戦後は大蔵大臣にも就任しました。その後は国際電信電話(現在のKDDI)社長や文化放送会長なども歴任しています。敬三は経営者・実業家としてだけでなく、政治家や民俗学研究者としても功績を残しました。

現在でも活躍する子孫たち

渋沢一族の子孫は各界で功績を残しており、その血筋は現在でも脈々と受け継がれています。アメリカ人の父と日本人の母をもつファッションモデル・澁澤侑哉さんは、渋沢のいとこの子孫にあたる人物で、人気番組『テラスハウス』への出演により注目を浴び、さまざまなメディアで活躍しています。また、父方の先祖に渋沢栄一をもつ澁澤莉絵留さんは本家の血筋を受け継ぐ女性で、わずか9歳でゴルフを始め、平成31年/令和元年(2019)にプロテストに合格。現在、ミレニアム世代の一人として注目されるプロゴルファーです。

実業家・渋沢栄一を支えた2人目の妻

豪商の娘として生まれるも一家が没落し、渋沢栄一の後妻として生きることを決意した兼子。もともとほかの男性と結婚していたことから、実家が没落しなければ渋沢と結婚することもなかったでしょう。そう考えると、兼子と渋沢の結婚は運命的なものといえるかもしれません。兼子は渋沢とのあいだに4人の子を授かり、その後の渋沢一族の発展に貢献しました。

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