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【北条時政の嫡男:北条宗時】石橋山の戦いで散った武将の生涯と残された謎

【北条時政の嫡男:北条宗時】石橋山の戦いで散った武将の生涯と残された謎

鎌倉幕府の初代執権・北条時政の嫡男である北条宗時。2代目の執権が彼ではなく北条義時であることから、宗時のことは良く知らないという人も多いかもしれません。令和4年(2022)に放送予定のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、片岡愛之助さんが宗時を演じます。鎌倉時代に台頭した北条氏の一員でありながら史料にあまり記録が残っていない宗時ですが、一体どのような人物だったのでしょうか?

今回は、宗時の出自、平家との戦いでの奮闘、宗時にまつわる謎などについてご紹介します。

北条宗時の出自とは?

史料にあまり記録が残っていない宗時ですが、出自はある程度わかっているようです。まずは彼のうまれを振り返ります。

北条時政の嫡男として生まれる

「大日本六十余将」より『伊豆 北條相摸守時政』です。

宗時は平安時代末期の武将で、詳しい生年は不明ながら、伊豆の豪族・北条時政の嫡男としてうまれました。幼名は北条若王丸、通称は三郎です。母についてもはっきりしたことはわかっていませんが、伊東祐親(いとうすけちか)の娘(時政の最初の正室)と考えられています。兄弟姉妹には、源頼朝の妻として有名な北条政子、鎌倉幕府2代執権として名を馳せた北条義時、六波羅探題南方や執権補佐・連署として活躍した北条時房らがいました。

源頼朝の義理の兄弟になる

北条氏はもともと平家の家人で、時政は伊豆に流された源頼朝を監視する役割を担っていました。そんななか、以仁王(もちひとおう)が全国の源氏に平清盛打倒の命令書を発します。頼朝は監視生活のなかでこれを受け取りましたが、このときには命令に従いませんでした。しかし、以仁王と源氏軍が敗れると、清盛から源氏への圧力が増し、頼朝もついに反旗を翻すことを決意します。

なお、このころの頼朝は時政の娘・政子と恋仲になっていました。いわば敵同士の恋に周囲は猛反対しましたが、二人はそれを押し切って結婚します。政略結婚が多かった当時、このような恋愛結婚は珍しいことでした。こうして頼朝と政子が夫婦になると、最終的に娘の結婚を認めたことから時政も頼朝の後援者になり、宗時も頼朝の義理の兄弟となりました。

平家と戦いでの奮闘

頼朝と兄弟になった宗時は、頼朝方として平家との戦いに参加します。そして平家追討のなかで奮闘しました。

頼朝の挙兵で先導役を務める

頼朝と政子の婚姻により、北条氏は頼朝にとって平家打倒における挙兵の中心となります。『源平盛衰記』によれば、治承4年(1180)8月17日、宗時は父・時政と弟・義時とともに伊豆目代・山木兼隆の屋敷を襲撃。その際、襲撃隊の先導役を務めています。目代とは、遙任国司(在京のまま代理人を現地に派遣して俸禄・租税を得る国司)が派遣した家人のことで、兼隆は平家方の一人でした。なお、時政はもともと兼隆と娘・政子の縁談を進めていたといわれており、たまたま伊豆を留守にしていたあいだに頼朝と政子が仲を深めたようです。そのような事情を考慮すると、兼隆にとってこの襲撃は受け入れがたい結果だといえるでしょう。

平家軍と激突!石橋山の戦い

歌川国芳による『源頼朝石橋山旗上合戦』の一部です。

兼隆を打倒した頼朝でしたが、兵力が少ないことからいずれ平家方の反撃を受けることは明らかな状況でした。そんな中、頼朝は300騎で伊豆から相模国に進出して石橋山に陣を構えます。一方、平家方は大庭景親が俣野景久、渋谷重国、海老名季員、熊谷直実ら3000余騎を率いて迎撃。頼朝は三浦一族による援軍の到着を待ちましたが、台風の直撃により頼みの綱である援軍が遅延します。その状況を見た景親は、三浦一族が到着する前に一気に決着をつけようと夜戦をしかけました。

敗北を喫し、逃亡するが……

石橋山の戦いで景親らと対峙した結果、約10倍の戦力で攻撃された頼朝軍は多勢に無勢で敗北します。追撃を避けるため山中へと逃亡した頼朝軍は、猛追する景親軍に激しく抵抗。そして土肥実平の進言により、分散して逃亡し再挙を図ることになりました。北条父子は頼朝と別れ、時政と義時は箱根湯坂を経て甲斐国へ向かい、宗時は山を降りて桑原に向かいます。ここで父と弟と別ルートをとったことが、宗時の運命の分かれ道となりました。宗時は伊豆国の平井郷を経て、早河の辺りで平家方の祐親軍に囲まれます。そして最後は、小平井久重(紀六久重)に矢で射られてこの世を去りました。

宗時、函南に眠る

宗時が眠る静岡県の函南

宗時の墓はJR函南駅から徒歩5分ほどの静岡県田方郡函南町・宗時神社にあり、時政が祀ったものといわれています。『吾妻鏡』によれば、建仁2年(1202)6月、時政は「桑原の宗時の墓に行け」という夢のお告げにより、宗時の菩提を弔うため伊豆国北条に下向しています。当時、地元の人が「北条時政が死んだ」と聞き間違えたことから、この墓は「ときまつさん」「ときまっつぁん」などと呼ばれており、現在でも呼び名が残っているようです。

北条宗時にまつわる謎

石橋山の戦いで死を遂げた宗時ですが、その人生にはいくつかの謎が残されています。ここでは彼にまつわる謎をご紹介します。

なぜ死亡場所と墓所が違う?

宗時は早河の辺りで死んだとされていますが、墓があるのは函南です。函南町には「早河」という地名は存在しないため、死亡場所は石橋山近くの「早川」だったとも考えられます。吾妻鏡』が編さんされたころには、宗時は早河で死んだと伝えられていましたが、墓が函南にあることからのちにつじつまを合わせたとも考えられるようです。また、戦死の地である「早河」については、宗時神社の近くの「冷川」を指すのではないかという説もあります。

北条宗時を討った人物とは?

宗時を包囲した祐親は、宗時にとっては母方の祖父にあたる人物です。また宗時を討った久重は地元・平井郷の名主で、のちに逮捕され、約3ヶ月後に腰越浜で処刑となりました。なお、『源平盛衰記』では伊豆五郎助久という人物が宗時を討ったことになっていますが、この人物についての詳細は不明です。

なぜ時政・義時と別行動をとったのか?

石橋山の戦いで敗走した際、宗時は時政・義時とは別ルートで逃亡していますが、なぜこのような行動をとったのかについては明らかになっていません。『吾妻鏡』によれば、時政たちは箱根を越えて甲斐国にいる仲間に報告に行く必要があったようです。これと同じように宗時も何かしらの目的があったのかもしれませんが、これについてはいまだに謎となっています。同じルートを辿っていれば生存していたかもしれないと考えると、このルート選択は宗時の人生最大の謎といえるでしょう。

まったく別の異説もアリ

宗時には異説もあり、16歳の時に出陣した戦場で右腕を失くし、家臣とともに信濃国安曇郡の仁科氏領へ隠居し同地で没したという伝説が残されています。その場所には現在でも「北条屋敷」という地名が残り、若宮社として祀られているようです。

史料でも短い登場だった宗時

北条時政の嫡男としてうまれるも、石橋山の戦いで命を落とした宗時。彼の存在が描かれる史料『吾妻鏡』では、治承4年(1180)4月に登場し8月にはすでに亡くなっています。わずか4ヶ月という短い期間の記述しかない宗時の全貌は、今もって謎といえるでしょう。もし生きていれば、鎌倉幕府の執権として名を轟かせていたかもしれませんね。

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