後白河天皇は平家と源氏の最盛期に関わった天皇です。権力闘争が頻繁に起こった当時、貴族や武士たちと巧みに渡り合う様は「大天狗」と称されました。令和4年(2022)のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、西田敏行さんが後白河天皇役を演じます。
今回は、後白河天皇のうまれから上皇になるまで、後白河院政派と二条親政派の対立、後白河上皇の院政、平家滅亡と源氏の台頭などについてご紹介します。
うまれから上皇になるまで
後白河天皇はもともと皇位を期待されていませんでした。上皇になるまで、どのような経緯があったのでしょうか?
今様に夢中だった親王時代
後白河天皇は、大治2年(1127)鳥羽上皇と中宮・藤原璋子の第4皇子としてうまれ、親王宣下を受けて「雅仁」と命名されました。鳥羽上皇は藤原得子を寵愛するようになり、崇徳天皇に譲位を迫って得子の子・近衛天皇を即位させます。このころ雅仁親王は今様(流行歌)を愛好しており、その没頭ぶりから「即位の器量ではない」とみなされていました。
保元の乱と平治の乱
久寿2年(1155)、近衛天皇の崩御により、得子の養子となっていた守仁親王(二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして、後白河天皇が即位します。保元元年(1156)に鳥羽法皇が崩御すると保元の乱が発生しましたが、ここでの後白河天皇は形式的な存在でした。その後、二条天皇に譲位して上皇になると、後白河院政派と二条親政派が対立し平治の乱が勃発します。さまざまな思惑と戦いの末、後白河上皇が抜擢した藤原信頼が政権を掌握しましたが、二条親政派と手を結んだ平清盛が信頼らを攻撃したため、後白河院政派は壊滅しました。
後白河院政派と二条親政派の対立
その後も後白河院政派と二条親政派の対立は続きますが、後白河上皇はどのように動いたのでしょうか?
二頭政治のはじまり
後白河院政派と二条親政派の対立は有力近臣の共倒れによりこう着し、その後は二頭政治が行われるようになります。政治に関することは後白河上皇と二条天皇に奏上され、関白・藤原忠通が諮問に答えるかたちで処理されたようです。永暦元年(1160)、後白河上皇は新たな院政の拠点として法住寺殿を造営し、翌年には完成した御所に移り住みました。そのあいだに得子が崩御し、二条親政派は後ろ盾を失います。これは後白河上皇にとって、政治の主導権を握るのも夢ではなくなったことを示していました。
二条親政により信仰にのめりこむ
応保元年(1161)、皇太后・滋子が後白河天皇の第7皇子・憲仁親王(高倉天皇)を出産すると、立太子の陰謀が発覚し、院政派の平時忠らが二条天皇から解官されます。以降、後白河上皇は政治から排除され、二条天皇と忠通により国政が営まれるようになりました。清盛も二条支持を明確にしたことから八方ふさがりになった後白河上皇は、信仰にのめり込んで千体の観音堂・蓮華王院を造営。寺社への荘園寄進により後白河上皇の経済基盤は強化されます。二条天皇はこの動きを警戒していましたが、病状の悪化により六条天皇に譲位、翌月、崩御しました。
勢力拡大と憲仁親王擁立
六条天皇が即位すると、摂政・近衛基実を中心に体制が維持されましたが、政権が不安定だったため後白河院政派が徐々に勢力を回復していきます。その後、基実が急死し、摂関家と平家が後白河院政派に鞍替えしたことで二条親政派は瓦解。後白河上皇は勢力拡大を推し進め、院近臣を次々に公卿に昇進させました。また、仁安元年(1166)10月には清盛の協力のもと憲仁親王(高倉天皇)の立太子を実現します。翌月には清盛を内大臣にするなど破格の人事が行われました。
後白河上皇の院政
ようやく権力を手にした後白河上皇ですが、平家との関係悪化が地位を揺らがせることとなります。
高倉天皇を即位させ、基盤を強化
後白河上皇は人員を刷新すると、清盛の長男・平重盛に軍事や警察権を委任しました。清盛は重盛に家督を譲って以降も発言力をもっていましたが、仁安3年(1168)2月に病に倒れます。これに狼狽した後白河上皇は、反対派の動きを封じるために六条天皇から高倉天皇への譲位を執り行いました。その後、清盛は政界を退いて福原で隠居し、後白河上皇は出家して法皇に。延暦寺との対立「嘉応の強訴」では平家との政治路線の違いが露呈しましたが、高倉天皇と清盛の娘・徳子が婚姻し、徳子が後白河法皇の子となったため平家との繋がりは保たれました。
平家との関係悪化と、鹿ケ谷の陰謀
ところが、滋子の死により後白河法皇と平家の関係は悪化しはじめます。重盛と平宗盛が左大将・右大将を独占するなど平家との協力体制は維持されていましたが、延暦寺の紛争が院勢力との全面衝突に発展すると事態は一変。後白河法皇の攻撃指示を重盛・宗盛が拒否したため、隠居中の清盛を呼び出す事態に陥りました。また、「鹿ケ谷の陰謀」では有力近臣を失い政治的地位が低下します。その後、高倉天皇に第1皇子・言仁(安徳天皇)が誕生すると立太子の儀式が平家一門で固められるなど、後白河法皇は平家への不満を強めていきました。
治承三年の政変と院政停止
治承3年(1179)、重盛が病の悪化で内大臣を辞任し、数ヶ月後に清盛の娘・盛子が死去します。盛子は夫・基実の死後、摂関家領の大部分を相続していましたが、後白河法皇は所領のすべてを没収。さらには重盛の知行国も没収し、清盛の面目を潰す人事を行いました。これに対し清盛は治承三年の政変を起こし、後白河法皇は慌てて今後は政務に介入しないと申し入れますが、その甲斐むなしく幽閉され、完全に院政を停止されました。
平清盛の死で平家勢力が衰退する
その後、平家の独裁に対し後白河法皇の第3皇子・以仁王(もちひとおう)が挙兵します。これは失敗に終わりますが、以仁王の発した平家追討の令旨により全国の源氏が立ち上がりました。また高倉上皇の崩御により後白河法皇の院政が復活し、平家は軍事権だけ守ったものの、清盛が熱病で死去。勢いが衰えた平家は、都入りした木曽義仲により京都を追い出されました。
平家の滅亡と源氏の台頭
長らく協力体制を保っていた平家はやがて滅亡に向かいます。そして、源氏が台頭しました。
木曽義仲の活躍と宇治川の戦い
平家は安徳天皇とともに逃亡したため、後白河法皇は平家が占めていた官職に院近臣を送り込みます。また、京都を占領した義仲を累進させて彼の武力に頼りました。ところが義仲は以仁王の子息・北陸宮の天皇即位を主張し、義仲の軍勢は都で略奪を行うなど京都の民衆や貴族たちから不評を買うようになります。頭を悩ませた後白河法皇は、義仲と敵対していた源頼朝に義仲追討を命じました。こうして義仲は、頼朝の弟である源範頼、源義経軍の攻撃により敗死します。
平家追討により源頼朝の勢いが増す
義仲の死後、後白河法皇は頼朝に平家追討を命じました。総大将となった頼朝は、範頼と義経を派遣し、一ノ谷の戦いで平家軍を撃破。頼朝の代官として京都に残った義経は、平家や義仲残党の追捕などに従事します。その後、屋島を拠点に勢力を回復していた平家の残党を討つべく範頼軍が下向しますが、兵粮米や水軍力の不足により戦いの長期化が危ぶまれ、義経軍が出陣します。この壇ノ浦の戦いでついに平家は滅亡しました。
新たな朝幕関係の確立
その後、頼朝と義経の関係が悪化し、後白河法皇は双方に対して追討宣旨を発する事態に陥ります。義経は頼朝追討の挙兵に失敗し逃亡。一方、頼朝は逃亡した義経を追いつめ、義経が逃げ込んだ奥州藤原氏に圧力をかけました。藤原泰衡は義経を自害に追い込み恭順を示しましたが、頼朝は奥州征伐を決行します。後白河法皇は勢力を拡大する頼朝と対談を重ね、新たな朝幕関係を確立。晩年は再建した法住寺殿に移り住み崩御しました。
戦乱と陰謀をくぐりぬけた天皇
度重なる対立のなかで何度も幽閉されるなど波瀾万丈な人生を送った後白河天皇。もともとは皇位継承とは無関係に過ごしていた後白河天皇ですが、戦乱や陰謀のなかで34年もの院政を行いました。その治世は平家と源氏が最盛期を迎えるなど重要なものだったといえるでしょう。