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【杉浦愛蔵(杉浦譲)】前島密とともに郵便制度を確立した男の生涯

【杉浦愛蔵(杉浦譲)】前島密とともに郵便制度を確立した男の生涯

杉浦愛蔵(杉浦譲)は、「郵便の父」といわれる前島密とともに郵便制度の確立に尽力した人物です。また、富岡製糸場の創設に関わったり、「日本資本主義の父」の異名をもつ渋沢栄一とも関係を深めたりと、近代化を進める明治時代初期の日本で活躍しました。NHK大河ドラマ『青天を衝け』では、志尊淳さんが愛蔵役を演じています。

今回は、愛蔵のうまれから渡仏まで、明治維新後の活躍、愛蔵にまつわるエピソードなどについてご紹介します。

うまれから渡仏まで

愛蔵の活躍は幕末時代から始まりました。愛蔵のうまれから渡仏するまでについて振り返ります。

甲府勤番の家系にうまれる

徽典館の2代目の校舎

愛蔵は天保6年(1835)甲斐国山梨郡府中で誕生しました。杉浦家は代々甲府勤番を務める家系で、約100人の旗本のうちの一人です。甲府勤番とは、幕府直轄領となっていた甲斐国で城を守る役割を担う江戸幕府の職で、老中の管轄に属していました。愛蔵は甲府勤番同心・杉浦七郎右衛門の長男としてうまれ、勤番の学問所「徽典館(きてんかん)」(山梨大学の前身)に入学。朱子学や政道論などを学び、わずか19歳で助教授になります。また、父同様に甲府勤番になりました。

江戸に派遣され昇進

文久元年(1862)、江戸に派遣された愛蔵は外国奉行支配書物出役となり、調役にも昇進します。このころの日本は、下関戦争で外国船を砲撃したり薩英戦争が起きたりと、尊王攘夷の風潮にありました。そのため幕府は、開港していた横浜港を閉鎖することで攘夷を実現しようと、横浜鎖港談判使節団の派遣を計画。徳川幕府の外国奉行・池田長発の遣欧使節団34名に抜擢された愛蔵は、外交使節の一員としてフランス軍の軍艦ル・モンジュ号でフランスに渡ります。しかし、横浜港の閉鎖は認められず、最初のフランスとの交渉が失敗すると見切りをつけ、他の国には寄らずに帰国しました。

パリ万博の随員として渡仏

パリ万博使節団

慶応3年(1867)、愛蔵はパリ万国博覧会に派遣される清水徳川家当主・徳川昭武の随員として、再度フランスに渡航します。将軍・徳川慶喜が実弟である昭武を将軍名代として派遣したのには、次世代の指導者としての期待や、近代化に向けた資金調達という狙いがあったと考えられます。このときの随行員には渋沢栄一もおり、愛蔵と栄一は意気投合したようです。この渡仏では愛蔵は一足先に帰国しており、慶応4年(1868)に外国奉行支配組頭となり、外国との交渉を担当するなど外交官僚として活躍しました。

明治維新後の活躍

長らく続いた徳川幕府が終焉を迎えると、新たに明治政府が成立します。明治維新後の愛蔵はどのような活躍をしたのでしょうか?

民部省改正掛に入る

明治維新後、愛蔵は徳川宗家当主・徳川家達(いえさと)に従って静岡藩に下りました。しかし、大蔵官僚・郷純造(ごうじゅんぞう)らの推挙により明治新政府に召されます。郷は旧幕臣の登用を大隈重信や伊藤博文らに推薦しており、愛蔵もその一人でした。海外の知識があるだけでなく外交交渉もこなしてきた愛蔵は、明治新政府にとって貴重な人材だったのでしょう。こうして愛蔵は、栄一が立ち上げた民部省改正掛に入ります。民部省は税を徴収する官庁、改正掛は政策立案の部署でした。

郵便制度の確立に尽力

ともに郵便制度を作った前島密

愛蔵は前島密と郵便制度の創設を担当します。明治3年(1870)5月、前島は郵便制度の視察や鉄道建設借款契約締結のために渡英。愛蔵は前島の後任として、責任者である駅逓権正になりました。これは前島が郵便創業の文書を立案した直後のタイミングだったため、愛蔵は立案文書の修正、具体的な郵便規則の整備、郵便切手の製造、郵便取扱所やポストの設置、職員の採用と配置、郵便事業に関わる備品や消耗品の調達などの準備を行いました。そして前島が渡英中の明治4年(1871)3月1日、ついに日本で郵便制度が開始されます。愛蔵は責任者として事業に尽力し、その後、初代駅逓正に昇進して地理権正も兼ねました。

富岡製糸場の創設にも関与

郵便制度の確立に奔走した愛蔵ですが、彼はほかにもさまざまな活動を行っています。東京初の日刊紙・東京日日新聞や、日本初の官営模範製糸場である富岡製糸場の創設などにも関与。また、四民平等を唱えて解放令や地租改正の必要性を訴えるなど、日本の近代化に尽力しました。その後は、大蔵省、太政官正院、内務省を経て地理局長に昇進しています。こうして明治新政府の一人として日本を支えた愛蔵ですが、地租改正のための測量を指揮しているあいだに肺病で倒れ、43歳でこの世を去りました。山梨県甲府市太田町の遊亀公園には、愛蔵の顕彰碑が建てられています。

愛蔵にまつわるエピソード

愛蔵はどのような人物だったのでしょうか?愛蔵に関するエピソードをご紹介します。

渋沢栄一との関係

渋沢栄一との共著『航西日記』

愛蔵は明るい性格で人見知りもしなかったため、栄一ともすぐに意気投合して良い話し相手になったそうです。パリ万博では、幕府は日本の代表ではないとされ、フランスからの借款が出来なくなるハプニングもありました。二人は滞在費用の節約のため、ホテルからアパートに移り共同生活を送ったといわれています。愛蔵は先に帰国しましたが、このとき栄一から栄一の家族への手紙を託されるほど信頼されていたようです。帰国後も家族ぐるみの付き合いをしたため、二人は実に仲の良い間柄だったといえるでしょう。また、愛蔵と栄一は『航西日記』を共著で発行しました。

コーヒーを愛飲した?

二人の共著『航西日記』の朝食の記事では、嗜好品としてコーヒーについての記述があり、これはコーヒーが記された最初の例とされています。パリ万博視察のためにともに渡仏した昭武、栄一、愛蔵らは、パリへの船中やシェルブールの海岸でコーヒーに出合い、その後も愛飲していたそうです。海外で最新の知識を身につけた彼らは、食の分野でも先駆者だったといえるでしょう。

日本初の切手を作った

初代駅逓正となった愛蔵は、日本初の切手の発行準備を取り仕切った人物でもあります。日本初の切手は「48文切手」で、そのほかにも100文、200文、500文の切手が発行されました。これらの切手には竜の模様が描かれており、額面の単位が「文」だったことから「竜文切手」ともいわれています。この竜文切手は、版に図像を削り込む腐食凹版印刷により製造されました。

ピラミッドとスフィンクスを見た日本人に

横浜鎖港談判使節団がスフィンクス像前で撮った写真

幕臣だった愛蔵は、第二次遣欧使節団(横浜鎖港談判使節団)としてフランスに渡った際、江戸とパリの往復を日記につづっていました。『文久奉使日記』には、目的地であるパリでの見聞や、到着するまでの往路について詳しく記されています。なかでも目立つのはエジプトについての記述で、一行はスエズからエジプトに上陸し、陸路を経て地中海に出ると、ギザの3大ピラミッドとスフィンクスを訪問。ここでは写真も撮影しており、愛蔵はピラミッドとスフィンクスを侍姿で見た日本人の一人にもなりました。

日本の近代化に尽力した人物の一人

前島密とともに日本の郵便事業を創始した愛蔵。彼は2度の渡仏経験により外交を担ったり、現在では世界遺産となっている富岡製糸場の創設に携わったりと、日本の近代化に尽力しました。同世代のそうそうたる人物の影に隠れていますが、渋沢栄一とも交流を持つなど人望と実力を併せ持つ人物だったといえるでしょう。この機会に愛蔵の人生にも注目してみてはいかがでしょうか。

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