武田勝頼は、400年続いた名門甲斐武田家の最後の当主であり、名将武田信玄の息子です。今回は、勝頼の生い立ちから家督相続、長篠の戦いから武田家の滅亡までを詳しくご紹介します。
生い立ちから家督を相続するまで
まずは、勝頼の生い立ちから、家督を相続するまでをご紹介します。
戦国武将、武田信玄の4男として生まれる
勝頼は、天文15年(1546)に戦国武将・武田信玄の4男として生まれました。母は信玄の側室であり、信濃国(現在の長野県)の領主・諏訪頼重の娘である諏訪御料人(本名は不明、諏訪御前とも)です。
勝頼の名前は、父・信玄の幼名「勝千代」と、諏訪氏の通字である「頼」から取られたとされています。母の出身・諏訪氏とは信玄の父(勝頼の祖父)の時代に同盟関係であったものの、その後信玄が滅ぼしたという経緯がありました。そこで、武田家内で諏訪氏を良く思わない勢力を納得させるため、兄弟の中で唯一、武田氏の通字である「信」を継がなかったとされています。
元服して高遠城へ
元服すると、高遠(信濃国伊那谷)の城主に任じられます。ここから「伊奈四郎勝頼」の呼び名も生まれました。高遠城主時代の具体的な状況を書いた史料は見つかっていませんが、城を中心とした独自支配権を持つ支城領だったとされています。
一方その頃、武田氏の嫡男・武田義信は父・信玄に謀反を疑われていました。実際に武田家は信玄派と義信派で分裂していて、永禄8年(1565)には義信の家臣たちが信玄暗殺を秘密裏に計画し処刑されるという事態が起こっています。義信自身も2年にわたって幽閉されたのち、自害させられました。
このとき、次男の海野信親は盲目だったため既に出家しており、3男の武田信之は早世していたことから、4男であった勝頼にお鉢が回ってきます。なお、勝頼は義信が幽閉された後、織田信長の養女・龍勝院(血縁では織田信長の姪にあたる)を正室としており、織田・武田同盟が強化されています。
正式な跡継ぎにはなれなかった勝頼
義信の自害の翌月には、勝頼に嫡男である武田信勝が誕生しています。信玄は武田家と織田家の血を引く信勝の誕生を大喜びし、遺言には正式な跡継ぎを信勝と定め、信勝が元服するまでの後見役として、父である勝頼を一時的な武田家当主としました。なお、龍勝院は難産だったとされ、信勝を産んだ4年後に死去しています。
信勝は正式な跡継ぎとしたのに、その父である勝頼を正式な跡継ぎにできなかったのは、勝頼を担ぎ出して諏訪氏が復讐することを恐れた家臣に配慮したからとされています。実際に、勝頼が信玄の死に際して武田家20代当主の座を引き継ぐと、武田家内で信玄派と勝頼派の対立が深まってしまうのです。
長篠の戦いから武田家滅亡まで
長篠の戦いから、武田家が滅亡するまでのエピソードをご紹介します。
武田家の転落のきっかけとなった「長篠の戦い」
勝頼が対立する家臣をまとめられないでいると、天下統一に向けて勢力を伸ばしていた信長と徳川家康の進攻を許してしまいます。勝頼は織田領である東美濃の明知城、徳川領である遠江国の高天神城を続けて落とし、浜松城にも迫るなど武功を重ねますが、徳川方に寝返った奥平親子の討伐に手こずります。
この間に織田・徳川連合軍が長篠城へ到着し、天正3年(1575)6月、ついに長篠の戦いが開戦しました。連合軍は陣城を築いたため、信玄以来の家臣たちは野戦ではなく攻城戦になると感じ取り、圧倒的な兵力差の影響で勝つことはほぼ不可能と確信。撤退を進言するも、勝頼は決戦を選択してしまいます。戦は8時間にも及び、武田軍は攻めあぐねて守りの戦いを強いられた挙句、数々の名将を含む1万人以上もの死傷者を出したとされています。
武田家の衰退
11月、信長の嫡男・織田信忠を総大将とした織田軍によって東美濃の岩村城が落とされると、12月には徳川軍によって遠江国の二俣城を開城させられます。さらに、武田家家臣である依田信蕃が高天神城に撤退したことで、高天神城が地理的に孤立してしまいました。
勝頼はこれを救おうと天正4年(1576)、徳川方の横須賀城を攻めるも、相手の徹底抗戦を受けて撤退。天正5年(1577)にとうとう家康が高天神城を攻めてきたことで、徳川と何度も交戦することになります。
また、勝頼は天正5年(1577)に北条氏政の妹(北条夫人)を後室に迎えます。北条氏と結びつきを強めることで、越後の上杉氏との関係修復をはかったのです。しかし、天正6年(1578)に上杉謙信が死去したのち、上杉氏は養子である上杉景勝と上杉景虎の間で家督争いが勃発。勝頼は両者の和睦調停を買って出て、氏政の実弟である景虎を支持します。しかし、景勝が莫大なお金と領土の割譲を提示したことで、勝頼は景勝に鞍替えしてしまいました。最終的に景虎は自害してしまい、上杉家の家督争いはひとまずおさまるのですが、これにより武田家は織田・徳川だけでなく北条氏も敵に回してしまうことになります。
勝頼の死と武田家の滅亡
<h3>勝頼の死と武田家の滅亡</h3>
北条氏からの信頼を失った勝頼を見て、徳川軍は天正9年(1581)、一気に高天神城を奪回します。勝頼は援軍を送る余力もなく、高天神城は全滅状態で陥落。武田家の威信は墜落し、武田一族の重鎮であった穴山梅雪をはじめとして多くの家臣が織田・徳川方に内通したり、離反したりしました。
天正10年(1582)、外縁にあたる木曾義昌が織田方に寝返ったことで勝頼は激怒、討伐軍を送るも織田・徳川・北条の総攻撃で総崩れに。最後まで徹底抗戦した高遠城も、ことごとく討死して陥落してしまいます。とうとう勝頼は本拠地としていた新府城を捨て、真田昌幸に勧められた上田城へ向かおうとするも、小山田信茂らの進言に加えて不吉とされる浅間山の噴火などを受けて、結局は信茂の居城である岩殿城へ向かいました。
しかし、勝頼を裏切った信茂に鉄砲で撃たれかけたため、最終的に天目山(現在の山梨県甲府市)を目指します。天目山は、かつて武田家13代当主が自害した場所。ここでも織田軍に攻撃されますが、最後まで付き従っていた40人ほどの家臣は徹底抗戦しました。中でも、土屋昌恒は片手で織田軍を次々と斬る「片手千人斬り」の伝説を残すほどの奮闘をみせています。
戦いの混乱が落ち着いたところで、勝頼は嫡子である信勝、夫人、従者を集めて自害。自害に先立ち、信勝に正式に家督相続の儀を行ったとされています。こうして、400年続いた名門武田家は滅亡しました。
戦の手腕は武田信玄に引けを取らなかった!?
初陣で臆することなく敵に突撃して討ち取る、東美濃への進軍後は織田方の支城を一挙に18も攻め落とした、などの武功があることから、勝頼の戦の手腕は父・信玄に引けを取らなかったとされています。また、勝頼は父・信玄が落とせなかった高天神城も落としています。高天神城は、戦国時代「高天神を制する者は遠江を制す」とまで言われたほどの拠点で、誰もが狙っていた城でした。
信長はこうした勝頼の猛攻を非常に警戒しており、「武田勝頼は武田信玄の遺言や法をしっかり守っていて、武田信玄に勝るとも劣らぬ人物。油断すると大変なことになるから注意してほしい。越後から勝頼を牽制してくれ」と謙信に打診するほどでした。勝頼の死後、首級と対面した信長は「日本に比類なき武者だったが、運が尽きてしまったのだな」と漏らすなど、その能力を高く買っていたことがわかります。
類まれなる才能を持った武田家最後の当主
勝頼は母の出自から家臣に信頼してもらえず、兄と父の死によって武田家の当主となったものの、結局は武田家を滅ぼしてしまいます。しかし一方で、勝頼は信長をもってして「信玄に勝るとも劣らない」と言わしめるほどの能力も持ち合わせていました。逆に、こうした父から受け継いだ才能によって織田・徳川両名を強く警戒させてしまったことが、武田家の敗因だったのかもしれません。