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【 古代史上最大の内乱! 】もう一つの天下分け目の戦い・壬申の乱

天下分け目の戦いといえば、日本史に疎い人でも関ヶ原の戦いが思い浮かぶと思います。ですが、実はその900年ほど前、西暦672年にも同じく関ヶ原にて天下を二分する争いがあったをご存知でしょうか。

対立したのは天智天皇の弟・大海人皇子(おおあまのおうじ)と息子・大友皇子(おおとものおうじ)。叔父と甥が次の玉座をかけて争ったのが天下を揺るがす家族喧嘩、壬申の乱です。

後継者争い。次期統治者となるのは?

中大兄皇子が蘇我氏から実権を奪い返し(いわゆる大化の改新)天智天皇として即位したのが668年、この時すでに43歳。当時としてはもうおじいさんの年齢ですね。

そうなると、どうしても気にしなくてはいけないのが「後継者問題」です。候補として考えられていたのが天智天皇の弟・大海人皇子と息子・大友皇子の二人でした。
当時は弟が皇位を継ぐのが通例だったので、天智天皇は大海人皇子に皇位を譲ることを申し出ます。しかし本当は息子の大友皇子に譲りたいと考えていました。それを知っていた大海人皇子は危険を察知、仏門に入りたい、と吉野に修行へ向かってしまいます。

これで一件落着、大友皇子が天皇となり国を治めて・・・とはいきませんでした。
吉野に下った大海人皇子はひそかに朝廷の様子を探っていたのです。そして天智天皇が没するとなると、すぐさま朝廷に反旗を翻します。

わずか数十人の手勢で吉野を出ると、伊賀、伊勢を廻りながら次々に味方を増やし勢力を拡大。大友皇子も朝廷軍として奮戦しますが、勢いには勝てず・・・。そしてついに瀬田の唐橋で朝廷軍を打ち破ることに成功しました。

関ケ原町にある乱時に大海人皇子が兜をかけたとされる兜掛石

 

こうして大海人皇子は天武天皇として即位し、国を治めていくことになります。かなり強引な方法で皇位についた天武天皇ですが、その後日本書紀の編纂や、伊勢神宮の整備、政治制度の改革など数々の功績を残し、偉大な統治者として日本史上に名を残します。壬申の乱での結果が違えば、日本の歴史は大きく変わってしまったことでしょう。

天武帝御影(大和国矢田山金剛寺蔵)、天武天皇像

兄弟は恋のライバルでもあった!?

天下分け目の争いの発端となった兄弟ですが、一人の女性を巡り争っていたともいわれています。ヒロインは額田王(ぬかたのおおきみ)。詳しいことはわかっていませんが大変美しい女性であったそうです。

はじめ額田王は天武天皇の妃となり一人の子供をもうけます。二人は大変仲睦まじかったようですが、そこに水を差したのが実のお兄さん、天智天皇でした。

天智天皇
『古今偉傑全身肖像』(1899年ごろ)

時の為政者たる天智天皇に求愛されてしまっては断ることはできません。額田王は天皇の妃が住む後宮に入ってしまいます。こうして二人の恋は引き裂かれることになってしまうのでした。

しかし、密かに思いあっていた二人。万葉集にこのような歌が残っています。

あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る (額田王)
(天皇以外立ち入り禁止のところにきて、天皇の妻に求愛するなんて、見つかったら大変!)

紫の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめもや (天武天皇)
(天皇の妻であっても変わらぬ美しさに私の恋は秘めていられない!)

そのまま受け止めると、なんとスリリングな関係!と思いますよね・・・。
ただ、近年では宴席での座興の歌とみられており、3人の関係について本当のところは定かではありません。
が、もしこのような確執から兄貴の思うようにはさせない!と天下を巻き込む大騒動に発展したかもしれないと思うと興味深いです。

日本の歴史を大きく変えた壬申の乱。関ケ原を舞台に繰り広げられたもうひとつの天下分け目の戦いとして、こちらも注目してみてはいかがでしょうか。

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