歴史ファン、甲冑ファンなら、織田信長、豊臣秀吉、家康、幸村など、名だたる武将が複数の甲冑を所有していたことを知っている人も多いはず。
また若武者の場合は体の成長もあり、そこで体型が合わなくなって新しい甲冑に変わるケースも、もちろんあると思います。
今日は猛将 加藤清正が若いころ着ていたという甲冑を、数年かけて現代に蘇らせた匠 熱田伸道氏をご紹介します。
加藤家は二代目で山形丸岡へ配流
きっかけは東北の新聞河北新報に「加藤清正 発掘品基に青年期の甲冑再現」という記事を発見したこと。
<加藤清正>発掘品基に青年期の甲冑再現(河北新報)
記事にある山形県鶴岡市にある丸岡は、初代熊本藩主清正の死後、嫡子忠廣が徳川幕府からの命で、江戸から出羽国庄内の丸岡に配流になった場所。諸説あれど、かなりの厳しい改易だったという記録が残っています。
忠廣は清正の遺骨をこの丸岡の天澤寺に葬ったとされているのですが、天保3(1646)年に丸岡大火という火事で天澤寺は全焼。その後昭和24(1949)年に発掘調査が行われた際に、清正の墓標清正閣の地下から甲冑がバラバラの状態で発見、後日の調査で加藤清正の甲冑であることが判明されました。
上述の記事は、この清正の甲冑を名古屋市の甲冑師熱田伸道さんが再現、天澤寺に寄贈したというニュースだったのです。そこでこの熱田氏にご連絡し、お話をお伺いしました。
発掘資料から読み取る武将の体型 清正公は胴長!?
熱田氏は、愛知県名古屋市熱田区で「甲冑工房おがわ」を経営されている、全国でも有名な甲冑師。
この甲冑製作のお仕事のほかにも、甲冑の時代検証・調査や修理などのほか、歴史セミナーでの講演活動など、大変精力的に活動されていらっしゃいます。
今回寄贈した清正の甲冑については、平成20(2008)年にこの地を訪れた熱田氏がその残欠をもとに、再現したもので、室町末期の金剛丸(最上胴丸)というものだったそうです。
そこから熱田氏は3年の歳月をかけ、2回の試作を経て今回ようやく完成、寄贈されたのです。
大名級の立派な甲冑などは1年がかりの製作期間がかかるとのことで、本当に大変な工程を経ての寄贈だったのです。
集団・組織的な戦闘へと、いくさが変化した戦国時代の当世具足と呼ばれる甲冑は、機能美を重視しており、サイズが体型に合っているかどうかが大変重要なのだそうです。
そこで今回の再現もあたり熱田氏が調査したところ、清正が胴長だったということが判明。
熱田さん曰く「武将としての誇りを示そうと、あえて高価で伝統のあるよろいを選んだのではないか」とコメントされています。
人骨や布などは長い年月のなかで分解されてしまいますが、鉄でできた甲冑は残っているものもあり、当時の武将の体型を推測するのに大変貴重なものですね。しかしそこから再現するというのが凄い・・・
この甲冑はそのようなところまでを計算して作られた、大変完成度の高いものなのです。
源氏発祥の地で生み出された匠の技
今回のこのエピソードを通じ、熱田氏の製作した素晴らしい作品の数々を拝見しました。
これまで200領以上を製作されているそうですが、オリジナルはもちろん、戦国ファンにはお馴染みの武将の甲冑も多数あります。
しかも熱田氏は、この甲冑をプラモデル感覚で組み立てることのできるアルミ製のセミ・オーダーメイドの甲冑「侍アルモデル」をプロデュース。
いろいろなオプションを組み合わせて、自分だけの「マイ甲冑」を自分の手で作ることができるという素晴らしいシステムです。
しかも前述のとおり、プランによってはしっかり採寸して製作もしてもらえるのだそうです。
甲冑好きの私としては、これまた大変に気になる耳寄りな情報。
夢のマイ甲冑をご検討の方は熱田氏の侍-アルモデルも選択肢の一つとして加えてみてはいかがでしょうか。
さて話は最初に戻りますが、今は山形の鶴岡に眠る清正公も自分の死後、ここまで思いをかけて自分の甲冑を再現、寄贈してもらうとは思ってもみなかったのではないでしょうか。
日本の甲冑は、金工・鍛鉄・漆工・染織など広範囲の技術の集成であり、当時の最高水準の技術をもって作り上げらた伝統文化としての価値が十分あるもの。
このような日本の伝統文化を引き継がれている熱田氏をはじめとする全国の匠たちに、心より敬意を表したいと思います。
参照元:
「侍の心 甲冑工房おがわ」オフィシャルサイト
「侍-アルモデル」オフィシャルサイト
「日本甲冑制作アドバイス協会」オフィシャルサイト
編集長Y