嘘をつくのは良くないこと。そんなふうに言われて育てられることが一般的かと思いますが、それでも嘘を一度もつかずに生きてきた方は少ないですよね。嘘からは生まれるのは、悪い結果だけでしょうか?
4月1日はエイプリルフール。今回は、歴史上の人物がついた嘘のエピソードについてご紹介します。
関ヶ原の勝敗を左右!?渥美源吾
徳川家康には多くの忍びの者が仕えていましたが、服部半蔵が「鬼半蔵」と呼ばれたのに対し、「首切り源吾」の異称で恐れられていた忍びが、渥美源吾です。
関ヶ原の戦いの折、霧が深く先が見通せないため、家康は源吾に斥候を命じました。
源吾はすぐに戻ってくると、「今日の戦には勝てます。良い頃合いですから早々に押し込むのが良いでしょう」と報告しました。
しかし、「先が見えないくらい霧が深いのに、どうして勝てるというのか」と周囲から問われます。
そこで源吾は、「今日負ければ誰も生きては帰れぬ。つまり、自分の報告など咎める人物もいないのだ」と答えたそうです。
源吾の意図とすれば、嘘だろうが何であろうが、とにかく味方の士気を高め、そこで先に敵を叩けば負けはしないという考えだったというわけですね。
結局、関ヶ原では家康率いる東軍が勝利を収めたわけですから、源吾の嘘も有効だったということになるんです。
北条早雲、小田原城奪取は嘘から始まった?
北条早雲が明応4(1495)年に小田原城を大森藤頼から奪ったきっかけは、早雲の「嘘」だったという話があります。
かねてから藤頼に贈り物攻撃をして近づいていた早雲は、鹿狩りの獲物が藤頼の領内に逃げ込んでしまったので、勢子を入れてもいいかと頼みます。藤頼があっさりOKすると、早雲は勢子に扮した兵と角に松明を結んだ千頭の牛を箱根山へとこっそり入れてしまいました。
そしてその夜、牛の松明に火を付けて兵が鬨の声を挙げると、牛はそれに驚いて走り回り始めます。その声と松明の灯りに、数万の敵が攻めてきたと小田原城内は大混乱に陥りました。それに乗じて、早雲はちゃっかりと城をゲットしてしまったという逸話です。現在では創作だろうとみられていますが、小田原市にはその逸話をもとにした銅像が作られていますよ。
堂々と嘘つきすぎ!伊達政宗
多くの面白エピソードに事欠かない伊達政宗ですが、すっきりするほどの嘘をついています。しかも相手は豊臣秀吉。政宗の胆の座りようにはびっくりです。
天正18(1590)年、東北で葛西大崎一揆が起きました。これは秀吉の奥州仕置で領地を没収された戦国武将の家臣たちが新領主に対して起こしたものだったのですが、実はこの裏側で政宗が一揆を扇動していたという密書が出てきてしまったのです。
このため、秀吉は政宗を召喚しました。死罪に相当するが、弁明するなら聞いてやろう、というところです。
そしてやって来た政宗は、書状の件について問いただされるとこう答えたのでした。
「その密書は偽造です。本来、私の書状なら、花押のセキレイの目に針で穴を開けてあるんですよ」
よくその密書を見てみると、セキレイの目には穴は開いていなかったようで、秀吉は笑って政宗を許したそうです。
しかし、これはもう限りなく真っ黒な事案だったのです。政宗が普段からこういう問答を想定して二通りの書状を作成していたとも言われていますが、秀吉からすれば「お前いけしゃあしゃあとよく言うな」と笑ってしまうほどだったんでしょうね。
戦国時代には嘘や謀略がものを言いました。彼らのように、ある意味鮮やかな嘘のつきっぷりには、爽快感さえ覚えます。エイプリルフールには、ウィットに富んだ嘘をついてみたいものですよね。
明智光秀は「仏の嘘をば方便といい、武士の嘘をば武略という。これをみれば、土地百姓は可愛いことなり。」という名言も残しています。
皆さんは、何か嘘をつくご予定はありますか?
(xiao)
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