戦国時代、兄弟手を携えて戦った例は数あれど、「四兄弟」が結束して戦ったという例は島津四兄弟をおいて他にないのではないでしょうか。この四兄弟、歴史好きにはとても人気があり、もっと注目されていいのではとも思いますよね。
なぜ島津四兄弟が歴史好きに支持されるのか、その理由を改めて考えてみましょう。
何と言っても兄弟の絆!
島津四兄弟(義久・義弘・歳久・家久)は、上の3人が2歳ずつ離れていて、末弟の家久がさらに10歳離れています。
というのも、家久だけ母親が違い、側室の子だったのです。そのため、歳久がそれを暗にあてこするような言動を取ったことがありました。しかし義久がそっとたしなめ、「努力すれば、親を超えるような人間にもなれるのだ」と発言しています。それを聞いた家久は以前にも増して武芸と学問に励むようになり、立派な武将になったのでした。
豊臣秀吉に降伏してからは、義弘が中央政権に重用されるようになりました。そんななか、歳久が秀吉に反抗的な態度を取っていたために彼にだけ朱印状が与えられなかったのですが、こうした離間策も彼ら兄弟を完全に割くことはできませんでした。3人の弟は長兄の補佐を全うし、島津家は兄弟の多い家に付き物だったお家騒動を起こすことがなかったのです。
義弘は関ヶ原の戦いへ単独参加し、義久の意に反した行動を取っています。が、男子のない義久に自分の息子2人を養子に出しており、兄と主家を第一に考えていたことがわかります。
祖父・日新斎が残した「日新公いろは歌」のように、帝王学を授けられた長兄を3人の弟が家臣として支えていく教育が行き届いていたのです。
四兄弟それぞれに長所あり!
「義久は三州(薩摩・大隅・日向)の総大将たるの材徳自ら備わり、義弘は雄武英略を以て傑出し、歳久は始終の利害を察するの智計並びなく、家久は軍法戦術に妙を得たり」
とは、祖父・日新斎の四兄弟評です。この言葉通り、彼らはそれぞれ長所を備えていました。
義久は本拠地にあって的確な指示を送りました。関ヶ原の戦いの後、徳川家康を相手に強気な交渉を行い、改易なく領地を安堵されています。これは、西軍に付いた大名の中では異例中の異例でした。
【島津四兄弟長男】やっぱり兄ちゃんが一番!豪傑揃いの弟たちをまとめた島津義久
義弘は戦場で力を発揮しました。特に寡兵で大軍を圧倒するなど劇的な戦いを演出し、朝鮮半島にまで鬼島津の名を轟かせたのです。関ヶ原の戦いでの決死の突破劇は「島津の退き口」として語り継がれました。
【島津四兄弟二男】彼こそ軍神!鬼島津こと島津義弘
歳久は、九州の雄としての島津家の反骨心を見せました。秀吉に強気な態度を見せ、最期には家臣たちの責任もすべて背負って切腹します。その生き様は今も地元では慕われています。
【島津四兄弟三男】慕われ度ナンバーワン?死して安産の神となった島津歳久
家久は節目の戦いでは常に活躍し、龍造寺隆信、長宗我部信親、十河存保などの有名武将を討ち取っています。若くして亡くなったのが悔やまれますね。
【島津四兄弟四男】実は最強説あり!武人の鑑・島津家久
それぞれの長所を活かした働きがあり、四兄弟で家を守ったのです。
人間的に魅力あり!
4人に共通するのは、人情味にあふれ、家臣を大事にする人物だったということです。
義久が長兄として懐の深い人物だったことは、歳久の言葉を穏やかに訂正し家久の発奮を促した言動からもわかります。
義弘は愛妻家の一面を持ち、家臣の妻子にまで心を寄せるなどまさに理想の主でした。
妾腹の弟を皮肉ったり秀吉に反抗したりと個性的な歳久も、領民や家臣からはとても慕われました。家久も、息子を失い軍を引く長宗我部元親に対して「ゆっくりお退き下さい」と心遣いを見せています。
義久を頂点に3人の弟がそれを支える図、というのはとても美しいですし、時の権力者(秀吉や家康)を恐れさせたところも歴史好きにはスカッとするところなのでしょうね。
大河ドラマ化も熱望される島津四兄弟。歴史好きだけでなく、もっとその魅力を知ってもらいたいですね。
(xiao)
関連記事
【島津最強伝説の秘密!?】圧倒的な強さを誇る軍団を育てた島津日新斎とは
【十中十死・島津の捨て奸】壮絶!奇策!?歴史に残る戦法の数々