小学生の頃、夏休みの宿題で朝顔を育てたことがある方も多いのでは?朝、観察日記をつけようと花の数を数えるのが楽しみでした。昼前にはしぼんでしまう、そんなはかない朝顔ですが、実は、江戸時代に一大ブームが巻き起こったのです。
今回は、日本人の心に寄り添う花・朝顔の歴史やエピソードについてご紹介したいと思います!
朝顔の起源は中南米!?
朝顔は日本古来のものではありません。起源は中南米で、中国を経て、日本には奈良時代に遣唐使によって伝えられました。中国では「牽牛子(けんごし)」と呼ばれていたそうですが、種子がとても高価だったため、これをもらった人が牛でお礼をしたほどだったそうです。下剤や利尿剤としての作用があり、もっぱら薬として利用されていました。
それが後に観賞用に転じ、品種改良が盛んになって、江戸時代に2回の大ブームが訪れたというわけです。
品種改良の結果、「変化咲き朝顔」という色や形に特徴を持った品種がたくさん生まれましたが、第二次大戦でほとんどが失われてしまいました。戦後、保存していた種子で発芽に成功したものもあり、今でも新たな系統を育てようと日夜研究が行われています。
江戸時代にやってきた大ブーム
江戸時代の朝顔ブームは後期に2回訪れましたが、最初のものが文化・文政期(1804~1830年)、2回目が嘉永・安政期(1848~1860年)でした。
文化・文政期のブームは、文化3年(1806)の江戸の大火でできた空き地に、植木職人たちが様々な朝顔を植えたことがきっかけでした。珍しいものは高く売れたため、収入に困った下級武士などは内職として朝顔栽培や品種改良を行って稼いでいたそうです。文化13年(1816)には、花の優劣を記した番付表を作り、「闘花会」なるものまで開催されるほど、朝顔熱は高まっていました。
飢饉や政治改革でいったん収束した朝顔ブームですが、嘉永・安政期に2回目の盛り上がりを迎えます。色や形がより複雑で珍しい「変化咲き朝顔」がもてはやされ、品評会の開催や朝顔図譜の出版が盛んになりました。大名から庶民までが朝顔に夢中になったのです。
第一人者の植木職人・成田屋留次郎が入谷に住んでいたので、入谷は朝顔の街としてにぎわいました。今も毎年7月には入谷鬼子母神朝顔市が開催されています。
また、留次郎は、朝顔と同じくらい歌舞伎役者の市川團十郎が大好きだったそうです。そのため、團十郎と同じ屋号の「成田屋」と名乗り、團十郎が歌舞伎十八番の内の「暫」で用いた衣装の色である、茶色っぽい柿色(海老茶色)の朝顔を開発しました。その名も「團十郎朝顔」。幻の朝顔と呼ばれ、今も専門の栽培家だけが種を所有するほど、とても貴重な品種です。
秀吉も仰天!千利休の斬新すぎる演出
朝顔のエピソードと言えば、千利休が有名です。
豊臣秀吉が、利休の屋敷に朝顔が美しく咲いているというのを聞きつけ、そこで茶会をしたいと望みました。そして当日、秀吉が訪れてみると、なんと朝顔はひとつ残らず抜かれてしまっていたんです。面食らった秀吉は、何とか茶室までやってきますが、そこで目にしたのは、床の間に生けられた一輪の朝顔でした。その美しさは、多くの花が咲き乱れるよりもさらに、朝顔の美しさが際立っていたといいます。
今では当たり前のことも、当時からすれば斬新すぎる演出は、利休の並々ならぬ美意識の高さを伝えていますね。
海外からやってきた朝顔は、今でも日本の夏の風物詩として、老若男女の心にしっかりと刻まれています。機会があればぜひ、朝顔を育ててみてはいかがでしょうか。
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