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【 2018年NHK正月時代劇「風雲児たち」に登場 】本当に悪者?田沼意次の真実

2018年のNHK正月時代劇「風雲児たち~蘭学革命(れぼりゅうし)篇~」は、三谷幸喜さんの脚本、大河ドラマ「真田丸」のキャストが集結ということもあり、早くも注目が集まっています。そんな中、草刈正雄さんが演じる田沼意次(おきつぐ)について、一般的には「賄賂と汚職」というイメージが強いようです。三谷さんの描くキャラクターに期待しつつ、今回は、史実の彼がどんな人物だったのか、見ていきたいと思います。

600石から老中にまで大出世!

田沼意次

享保4年(1719)、紀州藩士の家に生まれた田沼意次。父は徳川吉宗の側近で、当時部屋住みの身だった吉宗が8代将軍になると旗本となり、江戸に移りました。吉宗は紀州時代の家臣を多く登用しましたが、田沼家も恩恵を受けたわけです。

後の9代将軍・家重の小姓となった意次は、そこから将軍の側で出世していきます。10代将軍・家治にも重用され、禄高は600石から1万石にまで到達し、側用人になった意次の発言力はどんどん高まっていきました。

9代将軍・家重(左)、10代将軍・家治(右)に重用された意次。
(ともに德川記念財団蔵)

そして安永元年(1772)に、側用人出身として初の老中となります。そして、相良藩(現在の静岡県牧之原市ほか)5万7000石を拝領するまでになりました。
家重、家治両将軍に認められ、ここまで上り詰めることができたのは、意次の能力が優れていたからと言えるでしょう。

意次が行なった政策とは?

意次は悪化する幕府の財政赤字を食い止めるべく、主に以下のような政策をとります。

「株仲間」の結成

当時、飢饉や一揆の多発により、年貢だけでは財政が成り立たなくなっていました。そこで意次は、商人からも冥加金(上納金)を徴収することにしたのです。その代わり、同業の商人や問屋が集まった「株仲間」の結成を奨励し、販売権の独占などを認めました。商業重視の重商主義は画期的でしたが、独占販売権などを巡って賄賂が横行するようになってしまい、これが意次の悪いイメージとなってしまったのです。

蝦夷地開発

松前藩が担っていた蝦夷(北海道)との交易に、意次は目を付けていました。また、仙台藩医の工藤平助によるロシア南下についての論文「赤蝦夷風説考」が目に留まったこともあり、蝦夷地開発のための探索隊を派遣したのです。ところがその直後に意次が失脚したため、蝦夷地開発は頓挫してしまったのでした。

印旛沼の開拓

現在の印旛沼は開発により北印旛沼と西印旛沼に分かれ、水路で結ばれています。

現在の千葉県北西部にある印旛沼では水害が度々起こっていました。この対策に加え、江戸の人口増加に伴う食糧事情もあって農地が必要となり、意次はこの沼の干拓に着手しました。しかし、3分の2まで終えた所で洪水が起きてしまった上に、意次の失脚によって完遂とはならなかったのです。

なぜ悪者になってしまったのか?

田沼政治を「賄賂政治」と忌み嫌った
松平定信。

後期は、天災の多発によって庶民の生活が圧迫され、幕府への不満が意次への不満へとすり替えられていきました。加えて、600石から成り上がった彼に、譜代や親藩からの妬みもありました。
また、今では進歩的だったと考えられている重商主義も、商人を優遇し武士を顧みなかったと恨みを買ってしまったのです。

そして、老中で息子の意知(おきとも)が江戸城内で暗殺されると、意次の勢いは衰えていきました。その後、反田沼派により蟄居、財産没収に追い込まれ、天明8年(1788)に亡くなります。

この時代に賄賂が横行したために、意次=悪者としてのイメージが、後の老中・松平定信一派により作られたとされます。意次の政策の欠点ばかりが強調されてしまったのでしょう。

倹約と統制に満ちた松平定信の寛政の改革に、人々は田沼時代を懐かしみ「元の濁りの田沼恋ひしき」と狂歌を口ずさみました。後のイメージほど意次の政治は悪くはなかったのでしょうね。近年の研究でも開明的政治家としての再評価が高まっています。

デキる男は恨みも買う・・・いつの時代も、難しいものです。

(xiao)

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