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【 知られざる名門 】頼朝・尊氏・秀吉を支えた宇都宮氏ってどんな一族?

現在では餃子の街として有名な宇都宮市。その宇都宮市をかつて支配していたのが、宇都宮氏。平安時代後期から続く、歴史ある家柄です。そして、長い歴史の間には興隆と衰退のドラマがありました。戦国時代の人気武将たちに劣らず魅力的な、宇都宮氏の主な当主たちをご紹介します。

宇都宮氏とはどんな一族?

宇都宮氏の家紋『左三ツ巴』

宇都宮氏は、関白藤原道兼(道長の兄)の流れを汲む藤原宗円を祖としています。宗円は、前九年の役の際に源頼義・義家父子に従って下野宇都宮に下向しました。そこで宇都宮明神(現・二荒山神社)の神職に就き、3代目の朝綱から宇都宮氏を名乗るようになったのです。そして、この地で関東でも屈指の勇猛な武士団をつくり上げたのでした。

頼朝に「坂東一の弓取り」と言わしめた3代目・朝綱

神職にありながら武勇にすぐれた宇都宮朝綱の像(下野国地蔵院蔵)

宇都宮朝綱は、関東を拠点としていたこともあり、源頼朝に協力しました。そして、奥州藤原氏との戦いで功績を挙げ、頼朝から「坂東一の弓取り」と賞されます。宇都宮明神検校としても認められており、「戦う神主」だったんですよ。
こうして鎌倉幕府の有力御家人となった朝綱ですが、神仏には深い信仰を寄せました。東大寺の大仏左脇の観音菩薩を、快慶に命じてつくらせたと言われています。

小倉百人一首はこの人の依頼から!5代目・頼綱

5代目頼綱は朝綱の孫に当たります。北条時政の側室・牧氏の娘を妻としていましたが、時政と牧氏による将軍実朝廃立事件が起きると、謀反の疑いをかけられてしまいました。その時は周囲の口添えもあり追討されませんでしたが、彼は34歳の若さで早々に出家してしまいます。
そして、京都の小倉山山麓に隠居し、法然の弟子・証空に師事して蓮生と名乗りました。

宇都宮歌壇を発展させ、小倉百人一首選定を依頼した張本人・宇都宮頼綱(蓮生)

また、彼は歌人・藤原定家と非常に仲良しであり、娘を定家の息子に嫁がせています。彼自身も歌人として才能があり、京都や鎌倉と並ぶ日本三大歌壇のひとつ「宇都宮歌壇」を築き上げたんですよ。
そういうわけで、頼綱の小倉山山荘の襖絵に描く和歌として、定家に選んでもらったのが「小倉百人一首」と呼ばれるようになったんです。

その後の宇都宮氏、尊氏や秀吉からの評価やエピソード

宇都宮公綱像(大羽地蔵院所蔵)

9代目公綱もまた、楠木正成をして「坂東一の弓取り、戦いたくはない」と言わしめた勇将でした。しかし南北朝対立では南朝に付き、尊氏と対立します。
一方、息子である10代目氏綱は尊氏を選び、このとき偏諱を受け「氏綱」と名乗るようになっています。

戦国時代でみると、22代目の国綱は小田原征伐へ参加し秀吉から下野18万石を安堵され、文禄の役にも参加し、豊臣姓をもらうほどでした。
ところが、突然秀吉の不興を買い、改易されてしまいます。秀吉が「朝鮮でまた武功を挙げたら許してやる」と言うので国綱は慶長の役でも奮戦しますが、この間に秀吉が死んでしまったため再興の話はボツになり、帰国した国綱は失意のうちに江戸で亡くなったのでした・・・。

宇都宮氏中興の祖・成綱の登場と宇都宮錯乱

当時、室町幕府と鎌倉公方(後に古河公方)は険悪な仲であり、宇都宮氏はどちらにつくかで家臣団が分裂し内情が不安定となっていました。
それを打開するべく立ち上がったのが、17代目の成綱です。彼は反対派を屈服させ、一族の結束を強めて家臣団の原型を形成することに成功しました。そして領土の拡張も積極的に行っていきます。

しかし、古河公方の家督争いを巡り、成綱と重臣芳賀高勝とがどちらに付くかで対立し、家中分裂となってしまいました。そして成綱が高勝を謀殺したのを契機に、芳賀氏一派が起こしたのが永正9(1512)年から2年間続いた「宇都宮錯乱」です。成綱はこれに勝利し、没落しかけていた宇都宮氏を再編した功績によって「中興の祖」と呼ばれるようになったのでした。

ただ、この時代も長くは続かず、やがて再び芳賀氏が反撃に転じたため、宇都宮氏は徐々に衰退していくこととなるのです。

宇都宮錯乱の戦場にもなった宇都宮城

中世に最盛期を迎えた宇都宮氏、なかなか面白いストーリーを持った一族です。
実は伊予や美濃にも宇都宮氏の支流の領地があり、意外にも全国に宇都宮氏が分散していたとみられます。魅力度では下位に甘んじる栃木県ですが、こんな面白い一族がいたことは、もっとアピールしてもらいたいですね。

(xiao)

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