薩摩藩島津家の分家に生まれ、藩主・島津斉彬の養女となり、江戸幕府13代将軍・徳川家定の正室となった篤姫。2008年の大河ドラマ「篤姫」では宮﨑あおいさんの演技が印象的でしたが、2018年の大河ドラマ「西郷どん」でも北川景子さんが演じることが発表され、注目が集まっています。今回は西郷隆盛も関わった江戸城無血開城時とその後に焦点を当て、あらためて篤姫の人生を振り返ってみることにしましょう。
徳川の女性として生きた生涯
天保6年(1836)12月19日、薩摩藩島津家の分家の家に生まれた篤姫は、やがて藩主・島津斉彬の養女となり、江戸幕府13代将軍・徳川家定の正室となりました。しかし家定は2年もしないうちに亡くなり、篤姫は落飾、天璋院と名乗るようになります。
幕府と朝廷の公武合体が進められる中、14代将軍・家茂には皇女和宮が降嫁し、篤姫と和宮はいわば「嫁姑」の関係となります。武家と公家という習慣の違いから、最初は対立しましたが、やがて2人で協力し幕府を支えていきます。
家茂の死後、一橋慶喜を15代将軍に迎えるも、ここで倒幕運動が激化。大政奉還、戊辰戦争を経て、幕府は倒れます。江戸城無血開城後も、篤姫は城下で余生を過ごしました。大奥時代よりも自由な生活でしたが、質素倹約を貫いたそうです。明治16年(1883)年11月20日、47歳の時に脳溢血で倒れ、そのまま亡くなりました。家定に嫁いで以降、一度も故郷である鹿児島に帰ることはありませんでした。
江戸城無血開城後の篤姫
家茂の死後、後継となった15代将軍慶喜のことを、篤姫も和宮も嫌っていたといいます。というのも、慶喜が大奥をよく思っておらず、改革に乗り出したからなんです。
しかし、倒幕運動の中で慶喜を討とうという風潮が強まると、徳川家を守るためにも慶喜を助けて欲しいと、実家の島津家や朝廷に嘆願します。
それでも時代の流れは止められず、倒幕の勅命が朝廷から出され、倒幕軍が江戸城に迫ります。篤姫は退去をすすめられると、短刀を手にして自害の姿勢を見せ、断固拒否したそうです。幕府の重鎮・勝海舟は彼女を評して「貞女というか烈婦」と言い残しています。気性の激しい女性だったんですね。
篤姫と西郷隆盛との関係は?
篤姫は徳川家を存続させるために奔走し、ついには薩摩軍を指揮する西郷隆盛にまで「自分の命にかけても徳川家の存続を嘆願する」という書状を送っています。
さすがの西郷も、かつての主家筋の姫、しかも尊敬していた斉彬の養女である篤姫の頼みとあれば、無視できませんでした。そのため、勝との会談を経て、江戸城総攻撃を中止したのです。
大河ドラマ「西郷どん」では、西郷から篤姫への恋心が描かれる?という話も聞きます。しかし、実際の2人に直接の接点があったとは考えにくく、何より身分が違うため、会って言葉を交わす機会はなかったと思われます。
実際には、篤姫付きの女房・幾島が江戸城内と薩摩藩邸の連絡役をしていたようで、この辺りから間接的に接点はあったかもしれません。
江戸城を退去する日、篤姫は和宮と共に徳川の家宝とも言うべき豪華な調度品を並べたといいます。踏み込んでくるであろう薩長の面々に徳川家の文化の威容を見せつけたかったのでしょうか。もはや薩摩の女ではなく、徳川家の誇り高き女性となっていたんですね。
大奥退去後の篤姫
江戸城を去った篤姫は、16代将軍になる予定だった徳川家達を育てながら暮らします。その一方で、大奥の女中たちの今後を心配し、縁談や再就職先の世話に奔走しました。島津家からの援助を断り、徳川家の者として生きていく道を選んだのです。彼女の死後、残った所持金はわずか3円(6万円ほど)だったといいます。
また、勝と外出したり、和宮と会食したりと自由を楽しんだそうです。経済的には苦しくとも、第二の人生は割と充実していたようですね。実家を頼らず、最後まで嫁いだ家のために生きていくことを決めた彼女の強さには、頭が下がります。そんな晩年の篤姫も見られるかもしれない?「西郷どん」に期待したいですね。
(xiao)
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