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【検証!関ヶ原の戦い】小早川秀秋の「寝返り」にまつわる3つの疑問

今から418年前、西暦1600年(慶長5年9月15日)に起きた「関ヶ原の戦い」。天下分け目の大戦は、徳川家康の率いる東軍が勝利し、歴史の行方を大きく動かした。

西軍が敗れた第一の原因は、合戦当日に寝返った小早川秀秋に横腹を突かれたからということが広く語られている。しかし、最近では一次史料(当時の武将たちの書状など)の研究が進み、今まで事実とされてきた説が崩れることが多くなってきている。この小早川秀秋の行動も同様で、主に3つの疑問点から、その謎に迫ってみたい。

最初の疑問:本当に15000の兵を率いていたのか?

まず、最初の疑問として挙げたいのが、彼が率いていた15,000人という兵力数。ちょっと多すぎはしないだろうか? たとえば、宇喜多秀家は57万石の大名で、その兵力数は西軍最大の17,000人(ただし推定)。しかし、秀秋の所領は筑前名島36万石。それから考えても15,000は難しい。定説とは別の史料『関原軍記大成』では、彼の兵力を「八千」と記すものもあるように、8,000のほうが妥当といえそうだ。

「日本戦史 関原役」(国立国会図書館蔵)

では、なぜ15,000が定着したのか。その原因は、明治26年に旧・日本軍の参謀本部が編纂した史料『日本戦史 関原役』である。これは司馬遼太郎の小説『関ヶ原』に多大な影響を与えたこともあって、いわば関ヶ原の戦いの定説を作った史料といって良い。

参謀本部は、不明な点の多い「関ヶ原」の各大名家の兵力を数値化するため、島津家文書にある記述などを参考に、「1万石あたり300人」と定めて算出した。そこから「福島正則は20万石だから6,000」「井伊直政は12万石だから3,600」という具体的数字が導き出されたのである。だが、この数字はあくまで参謀本部が「このぐらいだろう」と推定した値。本来は参考にしかならないのだが、いつの間にか定説化してしまった。

秀秋の諸領が筑前名島52万2500石と記されている 「日本戦史 関原役 附表附図」(国立国会図書館蔵)

悪いことに『日本戦史 関原役』では、戦前から小早川秀秋の石高が52万石とされ、その石高から15,600人と割り出されている。このため「小早川秀秋15,000」が定着したのである。戦後、秀秋は36万石から備前岡山 55万石に大幅加増されたはずだが、戦前から52万石もあったのは誤りと見て良いだろう(※)。
※秀吉の存命中に59万石を与えられたとする説もあるが、それでは戦後に減封されたことになってしまう

ただ、たとえ8,000でも、西軍の大名の中では宇喜多秀家の17,000に次ぐ大軍。それが裏切った場合の影響力は小さくなかったのだろう。

2番目の疑問:秀秋は前日から東軍に寝返っていた?

通説によると、松尾山に布陣した秀秋は、9月15日の開戦(朝8時)から4時間ほど傍観を続け、正午に寝返りを決め、山を駆け下りたとされる。戦いの真っ只中で、彼が西軍の横腹を突いたため、「当日正午、小早川の寝返りで勝負は決まった」という定説に不思議はないように思える。

松尾山 日本史蹟大系 第11巻より(国立国会図書館蔵)

しかし、彼の前日までの行動を見ると、もっと早い段階から東軍に与(くみ)していたような形跡がうかがえる。特に分かりやすいのが、合戦前日の9月14日、松尾山への布陣だ。彼は当日、松尾山にいた伊藤盛正を追い出し、脅し取るような形で陣を置いた。

伊藤盛正は美濃国大垣3万石の城主で、石田三成の要請で居城を明け渡した西軍の武将である。これを追い出した時点で秀秋は「東軍」についたも同然だった。三成たち西軍は、このときまで大垣城にいたが、この秀秋の松尾山布陣に慌て、大垣城を捨てて関ヶ原に移動したという説もあるほどだ。

秀秋軍と交戦し、討死した大谷吉継 「関ケ原合戦絵巻」より(国立国会図書館蔵)

実際、西軍の大谷吉継は秀秋の動きを警戒し、松尾山の麓に近い位置に布陣したことで、真っ先に攻撃されている。確かに西軍から見れば「前日から寝返っていた」とも解釈できる。

3番目の疑問:なぜ、家康の銃撃に怯えた説が広まったのか?

通説として、家康は秀秋が裏切らないため、「爪を噛みながら苛立ち、松尾山めがけて鉄砲を撃たせた。そして、それに怯えた秀秋がついに東軍へ寝返った」という筋書きがある。「さそい鉄砲」と呼ばれ、司馬遼太郎の小説などでも書かれたことから、勝負の行方を決した重要なエピソードとして語られてきた。

しかし、最近ではこの「さそい鉄砲」は、作り話の可能性が高いことを多方面から指摘されている。まず麓から打った鉄砲の音に、山上の秀秋が気付くのかどうか、という疑問もあるが、そもそも前述したように秀秋が最初から東軍に与していたのであれば、鉄砲で脅す必要はなかった。

実際、この家康の「さそい鉄砲」というのは18世紀以降に編纂された徳川幕府の史料『御実紀』(徳川実紀)、『朝野旧聞裒藁』(ちょうや きゅうぶん ほうこう)などに、他藩の書物などから引用されて記された筋書きだ。

関ヶ原合戦があった17世紀の幕府の公式的な記録には、まだ「さそい鉄砲」の記述は見当たらない。軍監(目付)の奥平貞治らの催促に応じ、秀秋軍は松尾山を下って大谷吉継の陣に突入した、などとある。松尾山を下りた時間も明確ではなく、正午より早かったか、開戦から間もなくという見方もできる。

では、誰が「さそい鉄砲」の逸話を創作したのか。それは当の幕臣たちではなく、諸大名家や在野の史家たちだ。江戸時代になると、家康や徳川幕府のことを悪く記すことはタブーになった。逆に徳川幕府を賞賛し、家康を神君化することは歓迎された。そうした事情も手伝い、幕府成立の要因となった「関ヶ原の戦い」に、「爪を噛んで苛立った家康」が「さそい鉄砲で小早川を変心させた」など、よりドラマチックに粉飾したという可能性が考えられる。

幕臣たちは、記録の本文には「さそい鉄砲」を記さなかったが、面白いとは思ったのかもしれない。「こういう話もあるよ」と引用する形で、在野の書物から「さそい鉄砲」の逸話を付記した。その面白い筋書きに読者が食いつき、いつの間にか「史実」として広まってしまったのだろう。

合戦の功で出世した秀秋だったが、関ヶ原の戦いから2年後の1602年、21歳にして世を去った。経緯はともかく、西軍を裏切ったこと、「さそい鉄砲」の逸話が広まったこと、早世したことなどが原因か、秀秋は無能扱いされることが多い。確かに、今に伝わる肖像画を見ても少々頼りなさそうな顔をしているが・・・。

しかし、冷静に考えてみれば、前日の松尾山奪取、山を駆け下りて一気に東軍勝利のきっかけをもたらしたことなど、勝機に敏感な「勘」を持つ人物だったのではないだろうか。

文・上永哲矢

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