幕末から明治にかけて活躍した偉人・勝海舟は、徳川幕府の海軍の発展に尽くし、西郷隆盛との交渉を通じ江戸城無血開城を成し遂げるなど、さまざまな業績で知られていますよね。そんな彼の偉業の一つに、鎖国中の江戸時代に侍を率いて船に乗り、太平洋を横断したという大冒険があります。その船の名は「咸臨丸(かんりんまる)」。今回は、海舟の乗った咸臨丸の概要や渡米の経緯、戊辰戦争での行く末について解説します。
勝海舟が乗った船!咸臨丸とは
勝海舟といえば、後に軍艦奉行並になり、神戸海軍操練所を設立して坂本龍馬らを指導したことでも知られる日本海軍史上の重要人物です。そんな海舟が乗って太平洋を渡った咸臨丸とは、どのような船だったのでしょうか。
観光丸に次ぐ幕府第2の軍艦
咸臨丸は安政4年(1857)にオランダで完成しました。建造が始まったのが安政2年(1855)だったため、2年ほどかけて建造された船であることがわかります。当時の日本には、まだ大型の軍艦を造る技術がありませんでした。日本に送られたこの船は最初「ヤーパン号」と呼ばれていましたが、日本で咸臨丸と名付けられ、「観光丸」に次いで幕府が持つ2番目の軍艦となりました。長崎で練習艦として使用された咸臨丸は、その後、海舟たちを乗せてアメリカに向かいます。
艦長・勝海舟と乗組員たち
海舟とともに幕末期のさまざまな著名人が咸臨丸に乗り込みました。代表的な人物として軍艦奉行の木村芥舟(きむらかいしゅう)、アメリカ帰りのジョン万次郎、後に教育者・思想家となって慶應義塾を創設し、1万円札の肖像画にも選ばれた福沢諭吉などが挙げられます。ジョン万次郎はもともと土佐の漁師でしたが、遭難して漂流したのちアメリカ船に助けられ、アメリカで船員として働いていた人物で、幕末の日本でまれな語学力を持つ海外通でもありました。乗組員の日記には、諭吉は暴風雨の中、周りの日本人が船酔いで倒れた際も、きびきびと働き続けて周囲から感心されたと書かれています。
遣米使節団の派遣と咸臨丸
咸臨丸がアメリカに渡ったのは、遣米使節団の護衛という名目でした。使節団が乗り込んだのはアメリカが所有し、操船する軍艦でしたが、護衛する咸臨丸は徳川幕府の軍艦であり、日本人が主に操船したのです。遣米使節の目的や咸臨丸の当時の様子について解説します。
遣米使節の目的とは
遣米使節団の目的は、日米修好通商条約の批准書(ひじゅんしょ)を交換することでした。批准書とは、その条約に定められた内容を順守・履行する意思を国が持っていることを示した書類のことです。日米修好通商条約は総領事ハリスとアメリカの圧力で結ばされた条約で、日本に不利な条件を含んでいました。
護衛としてサンフランシスコへ
批准書を持った使節団は、アメリカの軍艦ポーハタン号でアメリカに向かいましたが、咸臨丸はそれを護衛する目的でアメリカのサンフランシスコに向かうことになりました。また幕府には、幕府海軍に航海の練習をさせるという意図もあったのです。そのため、長崎海軍伝習所の教員が多く乗り込みましたが、アメリカ側からは危険なためアメリカ海軍指導のもと操船を行うよう伝達され、アドバイザーとしてジョン・ブルック大尉とアメリカ人乗員が乗船しました。
勝海舟は船酔いしていた!?
海軍通として当時から知られていた海舟ですが、実は船や海軍の知識はあれど、船酔いに弱いという欠点もありました。小旗本の家柄ながら海防に関する意見書を書き、それが幕府に認められて抜てきされた海舟でしたが、船酔いしやすかったというのはなんだかほほえましいですね。咸臨丸の上でも船酔いに苦しんでいたことが、ブルック大尉や福沢諭吉の日記に記録されています。艦長として操船の指揮を執らなくてはならない立場でしたが、艦長室からなかなか出てこられなかったため、ブルック大尉やアメリカ人乗組員の手を借りながら航海を続けました。
こうして咸臨丸はアメリカ西海岸のサンフランシスコに到着。その後、無事に日本へと戻り、咸臨丸は初めて太平洋を往復した日本の船となったのです。
戊辰戦争に参戦した咸臨丸の結末
貴重な軍艦の一隻として期待された咸臨丸は、のちに勃発した戊辰戦争でも旧幕府艦隊として参戦します。
そんな咸臨丸の戊辰戦争時の結末について見ていきましょう。
榎本武揚指揮のもと江戸を出る
京都の鳥羽伏見で幕をあけた新政府軍と旧幕府軍が戦った戊辰戦争は、徐々に戦場を東へと移していきます。そんな中、咸臨丸は旧幕府海軍副総裁・榎本武揚(えのもとたけあき)の指揮のもと奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)を救援する艦隊の一部として江戸を出発しました。
逆賊の船となった咸臨丸
旧幕府軍の重要な戦力として新政府軍を迎え撃とうとした矢先、暴風雨に遭った咸臨丸は、主艦隊とはぐれて下田港に流れ着きます。修理に手間取ったため、新政府軍が派遣した艦隊に追いつかれた咸臨丸は十分な力を発揮することなく破れて「逆賊の船」となってしまいました。乗組員の多くは戦死、または捕虜となり、戊辰戦争での咸臨丸の役目は終了します。この時の犠牲者は、任侠の世界で有名な清水次郎長によって弔われました。
日本初!太平洋を往復した船
太平洋を往復した日本で初めての船として歴史にその名を刻んだ咸臨丸。戊辰戦争後、江戸幕府から明治新政府の所有になった咸臨丸は北海道開拓民の輸送船として使用されていましたが、最後はサラキ岬の沖合で座礁し、沈没してしまいました。その後、咸臨丸のものと推定される錨が発見され、大きな話題となっています。勝海舟らを乗せてアメリカへ渡ってから150年以上たった現在も、咸臨丸はサラキ岬の海底で眠っているのです。
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