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【出雲阿国が作った歌舞伎】かぶき踊りの始まりから女人禁制に至るまで

【出雲阿国が作った歌舞伎】かぶき踊りの始まりから女人禁制に至るまで

日本の伝統芸能の一つとして知られる歌舞伎ですが、その創始者は安土桃山時代に活躍した女性「出雲阿国(いずものおくに)」だったことをご存じでしょうか。歌舞伎といえば舞台上は女人禁制ですが、もともとは女性が作ったものだったとは不思議ですよね。現在のように男性による歌舞伎が中心となった背景には、風紀上の問題があったようです。

そこで今回は、歌舞伎を根付かせた出雲阿国とはどのような人物だったのか、歌舞伎のもととなった「かぶき踊り」について、さらには現在の歌舞伎に近づいた経緯などをご紹介します。

【目次】

歌舞伎を作った出雲阿国とは?

まずは阿国の人物像や、歌舞伎の原型ともいえる「かぶき踊り」がどのようにして生まれたのかについて見ていきましょう。

もともとは出雲大社の巫女だった

出雲阿国
出雲阿国です。元は出雲大社の巫女でした。

元亀3年(1572)阿国は出雲国(現在の島根県)の鍛冶屋・中村三右衛門の娘として生まれました。そして、日本を代表する神社である出雲大社の巫女(みこ)となります。
巫女だった彼女が踊るようになったのは、出雲大社の修繕費用を寄付してもらうことが目的でした。文禄年間に出雲大社勧進のため各地を踊りながら興業巡業したところ、阿国の踊りが評判になったのです。

ヤヤコ跳からかぶき踊りに変化

宮中での様子が描かれた『時慶卿記(ときよしきょうき)』では、慶長5年(1600)「クニ」という人物が「ヤヤコ跳」を踊ったという記録が残されており、この人物が慶長8年(1603)に「かぶき踊り」を始めたと考えられています。

もともと阿国が踊っていた「ヤヤコ跳」は、幼子の遊びのようなかわいらしい踊りでした。しかし興業を続けていくうちに、だんだんと人々が求めている踊りに変化していきます。こうして誕生したのが「かぶき踊り」です。この「かぶき踊り」は後に遊女屋にも取り入れられることとなり、男性から人気を得ました。

人気を博した阿国のかぶき踊り

出雲阿国の像
京都四条大橋にある出雲阿国の像です。

阿国が始めた「かぶき踊り」は諸国で人気を博します。そこまで人々を沸かせた「かぶき踊り」とは、一体どのようなものだったのでしょうか。

異性装を特徴としていた

「かぶき踊り」は、名古屋山三(なごやさんざ)役の男装をした阿国と、茶屋の娘役の女装をした阿国の夫が濃密に戯れるという内容でした。彼ら以外の踊り手も異性装を売り物としており、それを見た観客は倒錯感に高揚したといいます。踊りの最後には出演者と観客が入り乱れて全員で踊るなど、かなりの熱狂ぶりだったようです。
また、阿国が「かぶき踊り」を始める際に念仏踊りを取り入れたという見方が一般的ですが、その可能性は低いと指摘する説もあります。

諸国を巡業した一座

もともと阿国の一座は四条河原の仮設小屋で興業を行っていましたが、後には北野天満宮に舞台を張るほどになりました。『当代記』によると、京で人気になり秀吉のいる伏見城に参上して踊ることもあったのだとか。また、公家の近衛家や皇室の女性が住む御所でも踊りを披露していたようです。阿国の一座は京都での人気が衰えると、江戸を含む諸国を巡業してその芸を見せていきました。もともと仮設小屋で始まったことを考えると、驚くほどの大出世といえるでしょう。

こうして世間を熱狂させた阿国でしたが、慶長12年(1607)江戸城で勧進歌舞伎が上演されたあとは消息が途絶えています。ただし慶長17年(1612)に御所で「かぶき踊り」が演じられており、これを阿国の一座だとする説もあるようです。

女人禁制の歌舞伎になるまで

世間で話題となった「かぶき踊り」は、徐々に「歌舞伎」へと変化していきます。それと同時に、現代のスタイルに近い女人禁制へと変わっていったのです。

遊女歌舞伎の発展

遊女の後ろ姿
遊女の品定めの場になっていった遊女歌舞伎。

阿国が広めた「かぶき踊り」は遊女屋で取り入れられ、「遊女歌舞伎」として広まっていきました。当時はさまざまな土地の城下町に遊里がつくられていたため、この遊女歌舞伎はわずか10年ほどで全国に広まったといわれています。遊女歌舞伎は、男装した遊女と遊女の濃密な掛け合いに、三味線による囃子(はやし)を追加したものです。これはお客にとって、遊女の品定めの場になっていたようです。

幕府が風紀を取り締まった

こうして阿国の一座による「かぶき踊り」は遊女屋でも広まっていきましたが、あるときから女人禁制となってしまいます。というのも、寛永6年(1629)江戸幕府は女性が芸能の舞台に立つことを禁止したからです。
この背景には、風紀の乱れを取り締まるという理由以外にも、江戸時代以降に強くなり始めていた男尊女卑の傾向が関係していたようです。もともと女性によって広まってきたことを考えると、これは大きな、そして、なんだか無慈悲な変化といえますよね。

傾奇者だった阿国

当時、女性ながら武士の姿に扮した阿国は「傾奇者(かぶきもの)」として知られています。阿国が作った「かぶき踊り」は、やがて大胆で過激な女性だけの「女歌舞伎」や、若い美少年による「若衆歌舞伎」といったものに姿を変えていきました。しかしこれらも、風紀が乱れるという理由で禁止されてしまったのです。歌舞伎が現在の形に近づいたのは元禄時代になってからのことです。この頃には男性中心の演劇へと形を変えて、広く民衆に親しまれるようになりました。

 

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