歴人マガジン

【蒲生氏郷:会津の礎を築いた男】その功績と藩にもたらしたもの

【蒲生氏郷:会津の礎を築いた男】その功績と藩にもたらしたもの

蒲生氏郷(がもううじさと)という戦国武将をご存じでしょうか。氏郷は人質として織田信長に預けられるも、その類いまれなる才気を買われて信長の次女を妻とした人物です。「本能寺の変」の後は豊臣家の家臣として武功を上げ、奥州勢力を抑える役割を兼ねて、会津へ封ぜられました。会津においては、信長の市政手腕を活かした商業政策や近江の手工業技術の移入など、藩の基盤を築いた功労者として広く知られています。

今回は、そんな蒲生氏郷の生涯をその功績とともにご紹介します。

蒲生氏郷が奥州に移封するまで

戦国時代に生まれた氏郷は、人質から身を起こして、時の主権者達に重用されます。激しい時流の中で主君は替われども、その類まれなる才覚を発揮して一国一城の主にまで上り詰めるのです。

織田信長の寵臣だった

織田信長
氏郷の才能に気づいた織田信長は娘を嫁がせました。

氏郷(幼名・鶴千代)は幼いころに父・蒲生賢秀によって、織田信長に人質として預けられます。禅僧に学問を学び、斎藤利三の勧めで武芸を極めた文武両道の人物で、その才能は信長自身が烏帽子親(えぼしおや/仮親)をつとめ、次女を嫁がせたほどに傑出していました。そして、氏郷は信長のもとで小谷城攻めや長島の合戦、長篠の戦いといった名だたる戦に従軍し、武功を立てることになります。

本能寺の変の後、秀吉に従う

豊臣秀吉
信長亡き後、氏郷が仕えた豊臣秀吉です。

しかし、天正10年(1582)、信長は明智光秀に本能寺で追い詰められ、自刃してしまいます。この時、信長の一族を近江日野(現在の滋賀県)の日野城(中野城)に匿ったのが氏郷でした。山崎の戦いで光秀を征伐した豊臣秀吉は、氏郷の行いを大変高く評価します。同年、氏郷は家督を継ぎました。そして清州会議後、氏郷は秀吉の臣下となり、さらに小牧・長久手の戦いなどで手柄を立てて、出世を続けます。

天正12年(1584)には、伊勢の松ヶ島(現在の松坂市)に転封し12万石を与えられ、この時期に羽柴姓を名乗ることが許されました。そしてついには、松坂に自らの城を築くまでの成功を収めるのです。

奥州仕置によって陸奥国会津へ!

後北条氏を征伐した小田原攻めなど秀吉の天下統一事業への功が認められた氏郷は、秀吉が行った奥州仕置によって天正18年(1590)に伊勢から会津42万石に移封されました。

伊達政宗を牽制するためだった

伊達政宗
奥州の覇権を狙っていた伊達政宗です。

会津はもとは葦名(あしな)氏の所領でしたが、奥州の覇権を狙う伊達政宗に攻め入られ、その支配下に入っていました。小田原攻めを征した秀吉は、後北条氏と同盟関係にあった伊達家の存続は許したものの、領土の一部であった会津は召し上げ、氏郷を移封したのです。この仕置きは、仙台を本拠地とする政宗を氏郷に見張らせる狙いがあったといわれています。

鶴ケ城を築城し家臣たちを配置

会津若松城
現在の福島県会津若松市にある会津若松城です。

こうして会津へ入った氏郷は、会津若松城の整備に取り掛かります。郷里の近江からたくさんの技術者を呼び、今も残る野面積み(のづらづみ)の天守台と、七層の天守閣を築きました。現在の天守閣は寛永年間に建てられた5層の天守閣の復元です。この城は、氏郷の幼名を冠して地元の人から鶴ヶ城と呼ばれ、現代でも親しまれています。

氏郷は、城周辺の守備も万全に整えていきました。まず、重臣たちを領内の支城に城代として配備します。それから、鶴ヶ城の郭内には家臣の屋敷を配置して、車川を利用した外堀を築きました。さらに郭の外には庶民を住まわせ、要所に寺社を配置。この城下街が現在の会津若松市街地の原型となったのです。若松の名は、氏郷の故郷である近江国蒲生郷の地名、若松の森からつけられたといわれています。
その後も支配地は増領を繰り返し、氏郷時代の会津は92万石にいたる大領となりました。

氏郷が会津にもたらしたもの

蒲生氏郷
蒲生氏郷の肖像画。

氏郷は会津を治める際に信長の楽市楽座令に倣いました。また、近江から伊勢、会津へと転籍を重ねましたが、その度に商工業者も引き連れていったことで知られています。商工業が発展した上方に育った氏郷だからこそ、会津に強力な経済基盤を築くことができたのです。

会津藩の礎を作った氏郷の功績

氏郷は楽市楽座を中心とした商業政策に取り組みます。既存の特権を得た地元の商工業者を除いた自由取引市場をつくることで、新境地においても権力を確立したのです。さらに、市(マーケット)を設けて、地域間の生産物の交易を図り、毎月決められた日取りで各地域に市が立つように定めました。

もうひとつ、氏郷が会津にもたらしたものは、近江国の優れた手工業技術です。上方から招いた木地師と塗師は漆器づくりの基礎を地元に定着させました。また、酒造や金工についても高い技術を持った職人の技を会津へ移入させることで、付加価値の高い商品を生み出す基盤を築いたのです。千利休に茶道を習い、文化人としても高い教養のあった氏郷らしい政策だったといえるでしょう。

現在も会津では、塗と地酒が地場産業として続けられています。400年以上経った今もなお、氏郷の功績は会津若松に恩恵をもたらしているのです。

会津の漆器
会津の伝統的な漆器です。

キリシタン大名としても知られる氏郷

信長が認めた武将、蒲生氏郷。秀吉に仕えた後も、信長の心眼通り、戦国大名への道を駆け上がります。そして、奥州の砦という重要な役割を担ったのです。
勇猛果敢な武将であった氏郷は、キリシタン大名としても知られています。会津若松には教会の跡地が残っており、領民にも改宗を勧めたと伝えられます。40歳という若さで亡くなる氏郷ですが、会津の地に確固とした経済基盤を築く数々の政策を行いました。江戸時代における会津藩の繁栄は、この氏郷の功績によるものが大きいといえるでしょう。

 

<関連記事>
【会津藩主 松平容保】京都守護職となった美少年の波乱の人生とは?
【 会津の女戦士 】『八重の桜』の新島八重は超凄腕スナイパーだった!?
【会津戦争と白虎隊】少年たちの悲劇と生き残った人物とは?

Return Top