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【忍城の戦い】石田三成が水攻めしても落とせなかった難攻不落の名城

【忍城の戦い】石田三成が水攻めしても落とせなかった難攻不落の名城

豊臣秀吉が後北条氏の領土に侵攻した天正18年(1590)の「小田原征伐」。周囲の支城を巻き込んだこの天下統一の最終局面において、最後の最後まで抵抗を続けたのが忍城(おしじょう)でした。

豊臣軍の執拗(しつよう)な攻撃にも屈せず、難攻不落といわれた城を舞台としたこの戦いは、どのような経緯で起こり、どのような結末を迎えたのでしょうか。城攻めを指揮した石田三成の戦略や後の評価などを交えながら、戦国屈指の籠城戦「忍城の戦い」の全体像についてご紹介します。

忍城の戦いのきっかけとは?

文明10年(1478)ごろ、地元の豪族だった成田氏が、この地を支配していた忍一族を滅ぼして築城したとされるのが忍城です。そして戦国時代に入り、例に漏れずこの城も戦火に巻き込まれることになりますが、その圧倒的な堅牢(けんろう)さによって歴史に名を残すことになります。豊臣軍とのし烈な攻防に至った流れを見ていきましょう。

難攻不落の忍城

忍城
現在の忍城、模擬御三階櫓です。

北を利根川、南を荒川に挟まれた扇状地に築城された忍城は、大きな沼地や川の水によって運ばれた土砂などで形成される自然堤防に囲まれ、立地にも周囲の構造にも恵まれた、まさに要塞でした。天正2年(1574)には、後世に軍神と称された上杉謙信の包囲もしのいでいます。

小田原征伐がきっかけだった

一方で、時代は天下統一の最終局面に入っていました。西の諸国を平定した豊臣軍が本格的に関東に刃を向け、同地域の盟主的存在である後北条氏を討つべく「小田原征伐」を開始します。

忍城の城主・成田氏長は後北条氏に帰参した立場のため、必然的に忍城も豊臣軍のターゲットとなります。氏長らは援軍として小田原城に入っており、忍城の行く末は残った家臣たちに託されました。

戦いの経緯について

2000~3000人が立てこもる忍城に対し、豊臣軍は石田三成を総大将に大谷吉継、長束正家、真田昌幸、直江兼続ら錚々(そうそう)たる武将が名を連ね、総勢2万~5万人の大軍勢で攻略に臨みました。
10倍以上の兵力差をもってしても落とせない忍城の戦いは、どのような経緯をたどったのでしょうか。豊臣軍の戦略の変遷を見ながら難攻不落の城の神髄に迫ります。

攻めあぐねていた豊臣軍

大谷吉継
戦いに参加した武将の一人、大谷吉継です。

三成はまず城の大宮口に本営を設け、正攻法で仕掛けます。しかし、守りの堅さに阻まれたため、陣を丸墓山古墳に移動。忍城を包囲する形を取るものの、沼や河川を水堀として効果的に利用している忍城を前に仕掛けどころがなく、攻め手を欠きました。

秀吉の命により“水攻め”開始!

石田堤史跡公園
現在の石田堤史跡公園です。

そこで三成は、周囲の水脈の多さを逆手に取った「水攻め」に戦略をシフトします。川をせき止めて城側に大量の水を送り、水没させてしまおうと考えたわけです。
川をせき止めるために築かれた堤防は全長約14キロメートル(28キロなど諸説あり)。「石田堤」とも呼ばれる戦国時代最大級の堤防をわずか1週間弱で造り、水攻めを開始します。
ところが、突貫工事ゆえのもろさか、あるいは忍城側の間者の工作によるものか、堤防は大雨を受けて決壊。水攻めは本丸を陥れるまでには至らず失敗に終わりました。

総攻撃を仕掛けるも不落だった

上杉景勝
援軍として参戦した上杉景勝の肖像画です。

開戦から1カ月を過ぎても落ちない城に対し、秀吉は援軍を差し向け、浅野長政、上杉景勝、前田利家ら有力武将が参戦し総攻撃を仕掛けます。しかし、もともと守りに適した天然の要塞だったうえに、先の水攻め失敗によってさらに足場が悪くなったこともあり、豊臣軍の侵攻は思うように進みませんでした。結局、10倍近いとみられる兵力差をもってしても、忍城を落とすことはかなわなかったのです。

忍城の開城とその後

周囲の城が次々に陥落する中、必死に抵抗を続ける忍城。ついには、城主の氏長が援軍として参戦していた小田原城までもが落とされ、忍城は“最後の城”となりました。
その後、忍城は最後まで陥落することなく、自らの手で開城するという結末を迎えます。

7月16日に開城

忍城の戦いは、豊臣氏と後北条氏による争いのひとつに当たります。後北条氏の降伏はこの争いの終結を意味するところですが、7月5日の小田原城陥落後も忍城は抵抗を続けました。
しかし、氏長が秀吉の求めに応じて自らの部下たちに降伏するようすすめたことで、天正18年(1590)7月16日についに開城。難攻不落の城の戦いはここに終結したのでした。

その後の評価

石田三成
「戦下手」という認識が広まった石田三成。

さて、この戦いで割を食った形になったのが、豊臣軍の総大将、三成です。10倍以上の兵力差の大軍を率い、大がかりな水攻めに失敗するなど、最後まで城を落とせなかったことで、三成は「戦下手」「城攻め下手」といったレッテルを貼られてしまいます。

しかし、この水攻めは実は秀吉の指示によるものであり、三成自身は水攻めには消極的だったようです。水攻めの方法をかなり細かく手紙に記していることからも、秀吉が主導した戦略だったことがうかがえます。力押しではなく頭脳をもって難攻不落の城を陥落させることで、柔剛自在な戦ができるという周辺諸国へのアピールもあったのではないかといった推測もあります。

映画になり有名に!

終焉(しゅうえん)を迎えつつあった戦国時代で、大軍勢のあらゆる戦略と総攻撃にも耐え抜いた難攻不落の忍城。大規模な水攻めの際には本丸がまるで水に浮いているようになり、その姿は「忍の浮き城」と呼ばれ関東七名城の一つとして数えられています。
忍城の戦いは2012年に映画「のぼうの城」が公開されるなど、その堅牢ぶりは現在多くの人の知るところとなりました。このとき造られた「石田堤」は、今でもその姿を見ることができます。約400年前にここから不落の城を苦い思いで見つめていたであろう三成の心情に思いをはせてみるのも、一興かもしれませんね。

 

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