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【 ヤンデレ様? 】 天下一気の短い人物と評された細川忠興のちょっと残念なエピソード

【 ヤンデレ様? 】 天下一気の短い人物と評された細川忠興のちょっと残念なエピソード

細川忠興といえば、妻・ガラシャへの異常な執着と愛情が有名ですね。ちまたでは「ヤンデレ様」とも呼ばれています。

若い頃は美男で戦上手、熊本藩の祖としてなかなかの殿様だったのですが、忠興に関して伝わっているエピソードは良いものばかりではありません。そこで、今回は忠興に関するちょっと残念なエピソードについて見ていきましょう。

義弟を騙し討ち、妹には恨まれる

「冷徹な武将だった細川忠興」

「冷徹な武将だった細川忠興」

忠興の額には初陣の時に負った傷がありました。織田信長に褒められたことを自慢としていましたが、いつしか顔の傷について触れることはタブーになります。

その理由は、新たに負った鼻の上の真一文字の傷でした。
丹後国の守護・一色義定には忠興の妹・伊也が嫁いでおり、2人は義兄弟の関係にありました。しかし本能寺の変が起きると、忠興は羽柴秀吉に付き、義定は明智光秀に付いて対立します。

そこで忠興と父・藤孝は、義定を会食に招きます。対立したとはいえ義兄弟で義理の父子、義定は細川氏の城にやってきました。
しかしその席で忠興は自ら刀を抜き、一刀の下に義定を切り殺してしまったのです。

その後、一色氏の残党を皆殺しにした忠興は、伊也を細川家に連れ戻しました。
しかし、伊也の心には兄への恨みしかなかったのです。懐剣を取り出すと、彼女は兄に斬りかかりました。

忠興は何とか避けますが、鼻先を刃に切り裂かれます。その傷は、終生彼の顔に残ることとなりました。
そして、顔の傷は彼にとって語るべきでない禁忌となってしまったのです。

この話には、ちょっとした続きがあります。
京都の大徳寺を訪れた忠興は、希首座(希という名の僧)を突然斬り捨てて帰ってしまいました。しかも、希首座の弟まで殺してしまいます。

というのも、希首座とその弟は一色氏の一族だったそうで・・・忠興はこの時の刀を「希首座(きっそ / きしゅそ) 」と呼び愛用したそうです。

家康が許しても俺が許さん!息子を切腹させた忠興

忠興の二男・興秋は、人質となるために江戸へ向かう途中、勝手に京都で出家し寺に入ってしまいました。
この裏には、三男・忠利が後継となった不満があったとも言われています。
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後、興秋は大坂の陣の際、実家は徳川方だというのに、自分は豊臣方に付いてしまいました。しかも戦いでは活躍したというのですから大変です。
戦後、忠興は怒りを収められず、興秋に切腹を命じました。
徳川方からは忠興に免じて興秋を許すと言われていたのに、忠興が断ったとも言われています。

短気で知られた忠興、カッとなったことがわかるエピソードです。

愛刀・歌仙兼定の名前の由来

他にも、こんな逸話が残されています。
何事にもすぐカッとなる瞬間湯沸かし器だった忠興は、家臣に対しても容赦はありませんでした。
嫡子の忠利に仕える家臣たちの補佐がなっていないとして怒ると、彼らを次々と手討ちにしたのだそうです。最終的にその数は36人にも達しました。

そこで忠興はふと考えます。
36人と言えば、三十六歌仙ではないかと。そこで愛刀兼定に「歌仙」と付け、歌仙兼定と呼んでいたそうなのです。

「刀 銘 濃州関住兼定作(歌仙兼定)」室町時代(16世紀)

「刀 銘 濃州関住兼定作(歌仙兼定)」
16世紀 永青文庫蔵

ちなみに最近では刀剣乱舞で注目を集めています。

三十六歌仙とは平安時代の和歌の名人たちのことで、教養人だった忠興は自分のアイデアに悦に入っていたかもしれませんが・・・。
実際に手討ちにしたのは6人だとも言われていますが、6人でも多すぎますよね。
エピソードだけ見ると忠興が残念な感じに思えてしまいますが、フォローしますと晩年は角が取れて丸くなったそうですよ。

(xiao)

参照元:公益財団法人 永青文庫

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