「大学」と聞くと、どこを思い浮かべますか?
東大、京大、早稲田、慶応・・・、これらの有名大学の多くは、明治史に名を刻んだ偉人達が設立したものです。
しかし設立時にはやはりたくさんの苦労があったそう。今回はそんな大学設立の裏に隠れた、意外と知られていないエピソードをご紹介します。
あの有名人にボロクソに言われた?同志社大学創設者・新島襄
新島襄は、現在の同志社大学の前身である同志社英学校の創設者です。
大河ドラマ「八重の桜」の主人公・新島八重の夫としても有名ですね。
大学設立には、もちろん多額のお金が必要です。彼は色々な人から資金援助を受けますが、その一人にあの勝海舟がいました。
しかし実は襄が資金援助のお願いをした時、海舟は「大金を扱ったことがない奴に大学なんて設立できない」と手厳しく言いました。襄はかなりへこんでしまったそうです。その後、海舟は寄付をしましたが、数年後に襄は亡くなってしまいます。
海舟は、そんな襄の墓碑名を書いたというのですから、可愛がっていたゆえにあえて厳しくしていたのでしょうね。
ちなみに、海舟は福沢諭吉の慶応義塾大学設立の時は寄付を断ったらしいという話も・・・。
戦争していても学校は休みません!慶應義塾大学創設者・福沢諭吉
「学問のすすめ」の著者で有名な福沢諭吉は慶應義塾大学を設立します。
福沢諭吉が大学を設立時、江戸に残った明治政府反対派である彰義隊が上野に集結して戦争を開始しました。
この時、多くの人が逃げる中、福沢諭吉は慶應義塾の学生達に授業をしていたそう。
彼は学生達に「戦争が起ころうとも、慶應義塾は一日たりとも休まない。世間の騒動など気にせず学問に励むのだ」と学生達に言ったそうです。それほどまでに学問をすすめたなんて・・・さすがです!
特別な数字「125」ってなに!? 早稲田大学を設立した大隈重信
政治家として明治の日本に貢献した大隈重信は教育者としても知られ、あの早稲田大学を設立します。
教育者としての彼には「人間は125歳まで生きることができる」という持論がありました。
そのため、早稲田大学にとって「125」の数字が非常に大きな意味を持つことになり、早稲田大学の大隈講堂は125尺(約37m)の高さに設定されて建造されています。早稲田大学出身の皆さんはもちろん、その意味を知って・・・いますよね?
ボロボロの服で資金援助のお願いをした日本女子大学創設者・成瀬仁蔵
日本初の女子高等教育機関として日本女子大学を設立した成瀬仁蔵。
彼は女子が教育を受けられる大学を作ろうと決意し、資金作りに奔走します。そんな中、朝ドラ「あさが来た」のモデルになった明治の実業家・広岡浅子に資金援助のお願いをしますが、彼はその時ボロボロの衣服を着ていたそうです。
この姿を見た浅子は一度は資金援助を断りますが、彼が書いた本を読んで感銘を受けます。その後、浅子の援助により日本女子大学は設立され、今日まで女子教育の先駆けとして成長したのですね。
人を見る目があった?立命館大学創立者・中川小十郎
政治家・実業家として数々の実績を残した中川小十郎。
彼は立命館大学の前身である京都法制学校を設立します。
この大学を設立した時、ある学生が中途で入学してきたいと懇願してきたといいます。中川は「まじめに勉強するなら入学を許可してやる」とその学生に言い、立命館の理事に強引に入学許可を出してあげたそう。
この時に中途入学した学生は、後に法務大臣を三度も就任するほどに。
大臣室で数珠をもってポーズをしながら死刑執行書類に署名をし、世間を驚かせた政治家・田中伊三次です。
有名大学の創立した偉人達の裏話をご紹介しました。
どの大学にも面白いエピソードが残っていますが、知らなかったという方も多いのではないでしょうか。
自分の学校はどうだったのか調べてみると、意外な歴史を発見するかもしれませんよ。