東京都内でも有数の観光地・浅草。近年は日本的な情緒を求める外国人観光客の姿も多く見られます。下町ならではの庶民的なにぎわいの中心にあるのが、有名な浅草寺(せんそうじ)です。「浅草観音」の通称で親しまれているように、ご本尊は聖観音菩薩。秘仏中の秘仏として本堂の奥深くにある厨子に安置されているといわれています。
浅草寺は大都市のど真ん中にありますが、創建は「大化の改新」以前の推古天皇36(628)年と伝えられているので、法隆寺などと匹敵する歴史のある寺院ということになります。
伝承では、隅田川で漁をしていた檜熊浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)の兄弟の網に小さな聖観音像が掛かります。その像を見た兄弟の主人、土師真中知(はじのまなかち)は出家し、自宅を寺として聖観音像を祀ったのが浅草寺の始まりとされています。また平安時代中期の天慶5(942)年には大規模な伽藍が整備され、ほぼ現在に近い形になったと考えられています。
鎌倉幕府の歴史書「吾妻鏡」には、源頼朝が鶴岡八幡宮を造営するに当たって浅草から宮大工を呼び寄せたという記述があるので、すでに浅草寺周辺には人が集まる〝町〟が形成されていた可能性もあります。江戸時代は幕府の保護もあり、現在に至るまで繁栄を続けます。
さて、本尊の聖観音像は5.4センチの黄金の像といわれていますが、大化元(645)年に勝海上人という僧がご本尊の聖観音像を「秘仏」と定め、それ以来、実物を見た人は皆無とされています。
歴代住職の中には、その姿を拝もうと試みた者もいたようですが、厨子の扉を開けた途端に目の前が暗くなり、ご本尊を見ることはできなかったそうです。
また、明治維新の廃仏毀釈で政府の役人たちが扉を強引に開けようとしたところ、須弥壇に上った1人が転落して死亡。残りの者はご本尊の正体を確認することを恐れて逃げ帰ったという不気味なエピソードも。
しかし、「ご本尊を見た」という伝承も残っており、その正体は約20センチ大の青銅製の奈良時代の仏像だったとも、刀の留め金具である「金竜の目貫」だったともいわれています。ただ、あまりに長期間にわたって秘仏となっていたため、「実在していないのでは」とささやかれることもありました。
明治政府の役人が逃げ帰った後、当時の住職が「住職でありながらご本尊の実態を知らないのは情けない」と、仏罰を覚悟して扉を開くと、伝承通り1寸5分の観音像が収められていたとのこと。しかし、その像は黄金ではなく白金(プラチナ)だったといいます。
現在でも浅草寺は年に1度、ご本尊の開帳をしています。しかし、その時に姿を現すのは天安元(857)年に慈覚大師が秘仏の代わりに作った1尺8寸大の「御前立ご本尊」。秘仏はあくまで秘仏なのです。
その神秘性からさまざまな憶測がされてきた浅草寺のご本尊。
寺側としてみれば秘仏を守ろうと、「ご本尊」と偽って別の青銅製の仏像や金竜の目貫などとすり替えておくことで、強引に見ようとした徳川将軍や明治政府など時の権力者に懸命の抵抗を試みたのかもしれませんね。
(黄老師)
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