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【織田信長を最も知る男】「信長公記」を書いた太田牛一

【織田信長を最も知る男】「信長公記」を書いた太田牛一

「信長公記」(しんちょうこうき)の名前は、戦国時代がお好きな方なら、一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。「信長公記」は、織田信長の家臣である太田牛一(おおたぎゅういち/うしかず/ごいち:読み方は諸説あり)が記した、歴史上初めて書かれた織田信長の一代記です。

今回は、「信長公記」とこの書物を書いた太田牛一について、織田信長との関係性を含めながらご紹介していきます。

天下人・織田信長の一代記「信長公記」

「信長公記」は、信長が足利義昭を擁して上洛した永禄11年(1568)から、本能寺の変で死んだ天正10年までの15年をまとめた書物です。1年を1冊にまとめ、15冊の書物として成立しています。他にも俗に「首巻」と呼ばれる、幼少時代から上洛前までの信長を記録した1冊も存在します。

織田信長像
織田信長像。太田牛一は信長に敬意を払い、書物の名前を“しんちょうこうき”としました。

「信長公記」の「しんちょう」という読み方ですが、これは有職読み(ゆうそくよみ)といい、その人に対して敬意を表する意味で人名を音読みするという習慣に従った読み方です。このことは米沢藩上杉氏旧蔵本に収められ、現在は個人蔵である写本の内題に、「しんちやうき」と仮名での記述が内題(ないだい:表紙ではなく本文の最初もしくは扉に書かれる題名のこと)にあったことから、読み方の裏付けとなっています。「信長公記」が一般に書籍の形で出版されたのは明治以降でした。

成り立ちと概要について

「信長公記」は、日記をそのまま史料として成立させたものとは違い、太田牛一が過去にしたためていた「安土日記」などを元に編集されました。つまり、日記などを執筆のためのメモとして扱い、一つの記録としてまとめるという形で執筆されたのです。この点が他の史料とはかなり性質が異なる点でしょう。

特に天正3年(1575)の頃からは、その記録の正確性がずば抜けていることが他の史料との比較でも認められています。この頃になると、信長の勢力はかなり拡大していました。そのため、牛一は後に天下人となるかもしれない信長について、その記録をまとめた書物をしたためるという明確な目的をもち、日々詳細な記録をつけていたと考えられます。

著者は信長に仕えた武将・太田牛一

著者の太田牛一は、大永7年(1527)に尾張春日井郡山田庄安食に生まれ、慶長13年(1613)に87歳で亡くなったとされていますが、没年の史料的裏付けはありません。実名は牛一、通称は又介(助)で、のちに和泉守となりました。

牛一のその業績から、一時期は信長の祐筆(ゆうひつ:手紙などを代筆する文官)であったとされていたこともありましたが、実際は弓でめざましい働きをした武将でした。若い頃は尾張にある天台宗の常観寺(じょうがんじ)の僧侶で、還俗(げんぞく・出家して僧籍にはいったものが再び俗世に戻ること)したのち、織田家に仕えるようになります。織田家に仕える前は守護大名の斯波義統(しばよしむね)に仕えていたのですが、斯波義統が織田信友に討たれた後、その嫡男である義銀(よしかね)に従い、信長に仕えるようになりました。当初は柴田勝家傘下の足軽だったといわれています。

「是非に及ばず」 あの名言も「信長公記」から!

本能寺の変で明智光秀が謀反を企てたことを知った際の信長の言葉「是非に及ばず」。あまりに有名なこの言葉も、牛一が「信長公記」に記したものでした。彼は信長の死の直前まで仕えていた侍女を取材し、この言葉とともに本能寺の変の様子を詳細にまとめています。このように、我々が知っている信長に関するエピソードの多くは、「信長公記」が元になっているのです。

太田牛一と織田信長の関係性とは?

弓と的
弓の名手だったとされる牛一。多彩な人物だったようです。

弓でめざましい働きをした牛一。その優れた弓の働きが信長の目にとまり、信長の側近として仕えることとなりました。そのため信長の詳細な記録を残すことができたと考えられています。

弓の使い手として「六人衆」に!

足軽だった太田牛一は、斯波義統の弔い合戦とも言える「安食の戦い」に参加します。そこで弓の腕を認められ、弓衆三人・鑓(やり)衆三人からなる「六人衆」として信長の近侍衆に取り立てられました。
その後も、永禄7年(1564)の斎藤龍興の堂洞城攻めにおいて、二の丸の門近くにある建物の屋根に登り、高所から弓を放ち活躍するなど武功をあげています。その後は近習の書記となり、安土城下で屋敷を与えられるなど、官僚として信長に仕えました。

信長没後は豊臣家につかえる

本能寺
現在の本能寺。信長最期の地です。

永禄12年からは、信長の配下であった丹羽長秀(にわながひで)に与力として仕えていたといわれています。信長の死後も丹羽長秀に祐筆として仕え、長秀が亡くなった後は息子に家督をゆずり、加賀の松任で一時隠居の身となりました。ですが、そのあと秀吉からの要請で、豊臣家に仕えるようになります。秀吉のもとでは行政官として働き、寺社行政や山城国の検地を行ったほか、南山城と近江国浅井郡の代官も兼任しました。

秀吉の没後は豊臣秀頼に仕え、秀吉の一代記である「大かうさまくんきのうち」などを残しています。他にも豊臣秀次の記録や、関ヶ原合戦を中心にした家康の記録である「関ヶ原御合戦双紙」、当時の公家の様子を記録したものなどが残されています。

多くの英雄たちの記録を残した太田牛一は、当時としてはかなり長命の87歳でこの世を去りました。

有能過ぎる記録係り!

「信長公記」が現在も歴史史料として非常に高く評価されているのは、牛一の執筆スタイルも大きく関係していました。信長は比叡山焼き討ちなど、度々残酷な行為を行ったことはご存じの通りですが、牛一はそれに感情を込めて記述するようなことはしませんでした。あくまで第三者の視点で記録をしたためたことで、現在でも「信長公記」は優れた史料として扱われているのです。牛一のような人物が戦国最大の英雄、織田信長の一代記をしたためてくれたということは、歴史的にも大変な幸運だったといえますね。

 

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