伊達政宗といえば戦国時代の中でも高い知名度を誇る武将です。多くのエピソードを残す個性的な人物で、その人気から現在でもさまざまな創作作品に登場しています。
独眼竜という異名を持つ彼は右目の眼帯がトレードマークになっていますが、大きな三日月を示す印象的な兜も目を引くのではないでしょうか。実は彼の掲げた三日月には、ある想いが込められていました。
ここでは政宗の使用した三日月型前立ての意味や、政宗の有名な逸話についてご紹介します。
戦国武将にとって兜とは?
戦国武将たちはさまざまな兜を着用して合戦に挑みました。武将によって兜のデザインはだいぶ違いますが、そこにはどんな意味があったのでしょうか。
防具以外の意味合いもあった
合戦で敵の攻撃から身を守る兜は、武将にとって大切な防具でした。当時は敵の首級を討ち取ることが出世にもつながっていたため、頭部を守る兜は最も重要な役割を果たしていたといえるでしょう。
一方で有名武将らは、戦場で目立ったり威厳を示したりするためにも個性的な立物を取り付けていました。そこには自らの信念を込めることも多かったのです。
現代でも人形飾りとして残る
兜は端午の節句の人形飾りや鎧飾りとしてお馴染みです。端午の節句は中国から伝来し、奈良時代は菖蒲(しょうぶ)を摘んで邪気を払う行事でしたが、鎌倉時代には「武を尊ぶ=尚武」に変化し、江戸時代には男子誕生を祝うものとして庶民にも広まりました。
武家社会の頃は毎年5月頃に甲冑を手入れするため家の中に飾る習慣があったこと、また安全祈願として神社に甲冑を奉納していたことから、現在のように兜を飾る風習が定着したようです。
政宗が使用した三日月型前立て
政宗は大きな三日月モチーフが印象的な兜を着用していました。この三日月にはどんな想いが込められていたのでしょうか。
「妙見信仰」のシンボルで武運を祈った
政宗の兜が三日月モチーフになった背景には、妙見信仰の影響がありました。妙見信仰はインド発祥で、道教の北極星信仰と習合し日本に伝来します。神格化された北極星は「妙見菩薩」とされ、武将らは武運を祈願しました。星、月、太陽も信仰のシンボルで、政宗の前立ても月への信仰が元になったようです。
このモチーフを考えたのは父・輝宗だといわれており、輝宗は政宗が生まれた際、日輪を表す白地赤日の丸を旗印に決めました。日輪と月はともに仏の加護を表すため、輝宗の息子への想いが伝わってくるでしょう。
2代目からは弦月型に
月をモチーフにした前立ては代々伊達家に受け継がれ、歴代当主の兜として使われました。ただし2代目以降は半月型に変わり、これは引いた弓の形に見えることから「弓張月」とも呼ばれています。
また兜と鎧はセットになっていますが、政宗の黒兜と対になっていたのが「黒漆五枚胴具足」です。別名「仙台胴」とも呼ばれ、兜の月モチーフ同様、代々伊達家当主や家臣に受け継がれました。
伊達家の兜は現存する!
合戦の中で失われた兜も多いですが、伊達家の兜についてはいくつか現存しています。ここでは仙台市博物館で展示されている3つの兜についてご紹介します。
黒漆五枚胴具足
黒漆五枚胴具足は、政宗所用で代々伊達家に伝わる最も有名な具足です。
金色に輝く三日月型の前立が特徴で、胴は黒漆が塗られた五枚の鉄板でできています。草摺(くさずり)は九間六段下がりで、兜は六十二間の筋兜。「宗久」という銘が記されています。
- 形質:鉄製漆塗
- 大きさ:胸高37.6cm 鉢高13.5cm
- 年代:安土桃山時代(16世紀)
銀伊予札白糸威胴丸具足
銀伊予札白糸威胴丸具足(ぎんいよざねしろいとおどしどうまるぐそく)は、豊臣秀吉所用のもので、天正18年(1590)奥州仕置に向かった秀吉から政宗が拝領した具足です。
銀箔押しの伊予札、金色の軍配形の前立など、桃山時代ならではの鮮やかさと煌びやかさが特徴。軍配形の前立が二つ付属しており、一つは細い月を描いたもの、もう一つは蛇の目を描いたものになっています。
- 形質:皮製銀箔押
- 大きさ:胸高32.5cm 鉢高29.5cm
- 年代:安土桃山時代(16世紀)
三宝荒神形兜
三宝荒神形兜(さんぽうこうじんなりかぶと)は、上杉謙信所用と伝わる具足です。延宝7年(1679)に旧上杉家臣から伊達家の家来となった登坂家により献上されました。
兜と具足は三宝荒神と呼ばれる三面の忿怒(ふんぬ)の相を表しており、張懸の下は頭形兜になっています。紙や革に漆を塗る張懸(はりがけ)という技法で製作されました。
- 形質:鉄製漆塗
- 大きさ:胸高36.4cm 鉢高30.5cm
- 年代:室町時代(16世紀)
三日月を掲げた政宗の逸話
日輪の旗印に三日月の前立てで戦国の世を生き抜いた政宗。神の加護を受けた彼には大胆な逸話が多く残されています。ここでは特に有名な2つのエピソードをご紹介します。
「独眼竜」で知られる
政宗は「独眼竜」の異名でも知られますが、これは江戸時代後期の儒学者・頼山陽(らい さんよう)の漢詩によるものです。独眼竜はもともと後唐の皇帝・李克用(り こくよう)のあだ名で、頼山はこれになぞらえて政宗がもっと早く生まれていたらと詠んでいます。
政宗は5歳のころ天然痘で右目を失明しました。右目の切除を命じたところ世話役の片倉小十郎がこれを実行、あまりの激痛に失神した政宗ですが、小十郎はこの程度で騒がないように叱ったといいます。
しかし昭和49年(1974)の遺骨調査によれば片目の摘出痕はなく、史料にも眼帯の記述は見当たりません。この事から、実際には右目の視力だけが失われていたと考えられます。
「伊達者」の由来となった
政宗は「伊達者」という言葉の由来にもなりました。小田原攻めになかなか参加せず秀吉を怒らせたときは、ザンバラ髪に白装束(=死に装束)という姿で謁見し、自身の覚悟を伝えます。また、一揆の扇動を疑われた際は、再び白装束をまとい、金塗りのはりつけ柱(十字架)を先頭に上洛しました。このような派手なパフォーマンスに、秀吉は2度も政宗を許したといいます。
また文禄の役の際、上洛する伊達家の軍装は絢爛(けんらん)豪華で噂になったそうです。京の人々もその姿に歓声を上げて喜び、これ以降、派手で粋な身なりの人を「伊達者」と呼ぶようになりました。
洗練された実戦的な兜だった
戦国時代の兜は堅牢な作りで実戦的なものでしたが、そこにさまざまな想いや信念が重なり、派手で煌(きら)びやかに変化していきました。伊達という言葉には、現代ではオシャレといった意味合いもあります。政宗の洗練された兜は、それを象徴しているといえるかもしれません。
伊達家の兜は現在も仙台市博物館で見られます。展示期間には注意が必要ですが、仙台を訪問する際は足を延ばしてみてはいかがでしょうか。
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