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【 ゲリラ豪雨が勝敗を決めた 】 自然の猛威!天気が歴史を動かした?

【 ゲリラ豪雨が勝敗を決めた 】 自然の猛威!天気が歴史を動かした?

今でこそ天気予報でおおよその未来の天気を知ることができますが、昔はそんな便利なものなどありませんでした。なので、突然の天候の変化によって状況が大きく変わることもあったのですね。今回は、天気に左右された歴史上の出来事をいくつかご紹介していきます。

ゲリラ豪雨が勝敗を決す!?桶狭間の戦い

『尾州桶狭間合戦』 
『信長公記』によると雹が降ったとされている桶狭間合戦

永禄3(1560)年、織田信長が今川義元を破った桶狭間の戦いは、天候が勝敗を左右した最たる戦いと言えるでしょう。信長が義元に奇襲を仕掛け、豪雨の中討ち取ったというのが通説ですが、現在は少し違った説も出てきています。

ゲリラ豪雨のような凄まじい雨は降ったものの、信長軍はそれを背中に受けての正面攻撃でした。そしてもろに豪雨を顔面に受けた今川軍が機能不全となり、信長の勝利を招いたと言われているのです。

神風は吹いたのか?元寇

文永の役の様子を描いた『蒙古襲来絵詞』前巻、絵七。
文永の役の様子を描いた『蒙古襲来絵詞』前巻、絵七。

文永11年(1274)年の文永の役では、元軍に対して神風(暴風雨)が吹いて軍を蹴散らしたとも言われていますが、元や高麗の史書には暴風雨の記述はありません。苦戦した元軍が撤退し、その途中で暴風雨に襲われたとされています。
一方、弘安4(1281)年の弘安の役では、元軍は14万もの史上稀に見る大規模軍団で博多湾に押し寄せてきました。しかし博多湾に入ってから2ヶ月後の7月30日、台風が元軍を襲ったのです。ちょうど台風の時期だったのですね。そして元軍は軍議により撤退を決めたのでした。
弘安の役と台風がぶつからなかったら、日本はどうなっていたのでしょうか?ちょっと怖いですね。

天候を読んだ信長!?長篠の戦い

「雨で鉄砲の火薬が湿ると使い物にならなくなってしまう」
「鉄砲隊も雨で鉄砲の火薬が湿ると使い物にならなくなってしまう」

天正3(1575)年、武田軍との長篠の戦いにおいては、織田軍が鉄砲隊を駆使して勝利しました。ちょうどこの時期は旧暦5月(現在では5月下旬~7月上旬)で、梅雨時でした。しかし合戦当日、武田の本陣付近では雨が降らなかったのです。もしかすると梅雨明けだったのかもしれませんね。

そのため、信長が天候を読んで行軍と決戦を遅らせたという推論もあります。もし雨が降ってしまえば、湿気で鉄砲は使い物にならなくなってしまいますから、それはありえる話ですね。
結果として信長軍の鉄砲隊により、武田軍は惨敗を喫することになったのでした。

梅雨が開城を早めた!秀吉の備中高松城水攻め

信長の命を受けた羽柴秀吉は、毛利方の清水宗治が守る備中高松城を攻めました。しかしこの高松城、低湿地にある沼城でとても攻めにくい城だったのです。
信長から早く城を落とすように命じられていた秀吉は、黒田官兵衛の助言もあって水攻めを決意しました。堤防を築き、城の近くを流れる足守川の水を城の周りに引き込んで浮城にしてしまうというものでした。

赤松之城水責之図
『赤松之城水責之図』(東京都立中央図書館所蔵)

この時に梅雨が重なり、雨で川が増水したため、城の周りは巨大な湖となりました。これによって毛利方も成すすべはありませんでした。その時飛び込んできた本能寺の変の報せに秀吉は京都へ取って返すこととなります。これが「中国大返し」ですね。

生死をかけた戦いにおいても、抗いがたい自然の力が勝敗を左右したことも少なくありません。いつの時代も、人間は自然の脅威に無力となる時があるんですよね。
それにしても、うまく天候を読んだ信長、もしかすると天気予報ができたのかな、なんて思ってしまいます。もしくはそうした人材を抱えていたとか・・・。信長なら有り得ると思いませんか?

(xiao)

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